そのころ、陸軍部隊の最大単位は、 「鎮台」 といった。鹿児島方言などではいまだに兵隊のことをチンダイさんという。たとえば明治十年の西南ノ役では熊本の鎮台兵が、西郷の私学校兵を防ぎ、力戦した。 明治四年には鎮台は四つあった。同六年にはこれが六つになった。六鎮台制というものである。その番号順にいうと、第一は東京、第二は仙台、つづいて名古屋、大阪、広島、熊本である。同時にこの頃、全国のおもな城はことごとく陸軍省の所轄
になった。 たとえば熊本鎮台は熊本城内に置かれた。鎮台といいかにも防御的なにおいの呼び名と言い、さらにそれが古めかしい城をもっていることと言い、どこから見ても鎮台時代の日本陸軍は外征を目的としたものではない。 国内治安のためのものであり、万一の場合外国が攻めて来たときのための防御用の軍隊であった。 要するに鎮台という制度は外国からの輸入制度でなく、明治初年の日本人の独創によるものであった。 「諸君はどう思っているかは知らないが、制度としては、児戯じぎ
にひとしい」 と、この鎮台制を笑ったのは、メッケル少佐である。メッケルは鎮台が古城に籠こも
っていることについてもおかしがった。 「諸君は城を要塞ようさい
と思っているか。近代要塞というのはあのようなものではない」 当時の日本陸軍はやがてこのメッケルの意見を容い
れる。 メッケルが来日したのは明治十八年三月だが、その翌十九年三月、陸軍省の中に 「臨時陸軍制度審査会」 というものが設けられ、制度改革に向かって活発な活動が始まった。委員長は児玉源太郎大佐であり、委員には少将桂太郎、同川上操六らが加わっている。 ──
メッケルに諮問しもん した。 というが、諮問というようななまぬるいものではなく、メッケルが口述するドイツ陸軍の制度をそのまま直訳実施しようとするものであった ここに明治初年以来の鎮台が、 「師団」 という呼称に改められる。師団という単位思想は鎮台よりもはるかに機動的で運動能力を持っている。いわばいつなんどきでも
「師団」 を輸送船に乗せて外征するという活動的な姿勢を帯びる。 メッケルのドイツ陸軍はフランスを仮想敵国としてつくられている。一令のもと国境線を突破してフランス領内を侵すようにその制度や機能がつくられている。日本陸軍がこのドイツ式に転換した時こそ、その軍隊目的が、国内の鎮しず
めから外征用に一変したときであった。 日本をとりまく国際情勢も、そういう転換を強制している。清国とのあいだの争点になっている朝鮮問題が悪化し、日清両国の強硬な外交態度から見て、いずれはこの関係が外交の域をこえるであろうことはたれの目にも予測された。日本のドイツ式軍制へへの転換は、このいずれは・・・・
のためであると言っていい。 |