真之が英国式教育を受けているのに対して、陸軍大学校在籍中の好古は、ドイツ人を師としていた。 以前に触れたプロシャ
(ドイツ) 陸軍の参謀将校メッケル少佐である。その着任は明治十八年三月十八日で、それ以前から、 ── 智謀神ノゴトシ。 といううわさが、すでに聞こえていた。 余談ながら、のちに日露戦争を勝利に導いた日本軍の高級参謀将校のほとんどがメッケルの門下生であり、メッケルの在任は明治二十年前後のわずか数年の期間ながら、その門下生たちはよくその教えをまもった。のち、この間
のことが極言されて、 「日露戦争の作戦上の勝利は、メッケル戦術学の勝利である」 とさえ言われたほどであった。 さらに余談ながら、日露戦争の緒戦しょせん
、黒木大将の第一軍が鴨緑江おうりょっこう
の渡河とか 戦でロシアの大軍を撃破するや、参謀長長藤茂太しげた
は何よりも先ずベルリン郊外で隠棲中いんせいちゅう
の少将メッケルに感謝の手紙を戦場から送った。 ── 貴官の教えのとおりに戦い、われわれは勝利を得た。 という意味の誠意を藤井は文面に籠こ
めた。藤井太は当時陸軍少将であり、秋山好古と共にわずか十人の陸軍大学校第一期生の卒業である。 メッケルはこれに対し、 「予は最初から日本軍の勝利を信じた。この勝利は日本軍の古来培養ばいよう
せる精神のいたすところである」 と、返信した。 また満州派遣軍の参謀長であった児玉こだま
源太郎も、戦前、ドイツに旅行し、メッケルを訪ねて鄭重に謝意を述べ、さらに戦いが終了するや、感謝の電報を打っている。 それでもなお日本陸軍の首脳部にとってはその師メッケルへの感謝が尽きず、明治三十九年メッケルの死を聞くや、八月四日、その追悼会ついとうえ
が参謀本部で行われた。 メッケルは日本陸軍にとって文字通り神のように仰がれたが、その本国のドイツにあっては不遇であった。近代用兵の樹立者であるモルトケの愛弟子として当然ながら参謀総長に進むべきところ、皇帝ウィルヘルム二世に好まれず、参謀次長を最後に現役を退いた。 そのメッケルが、好古らの陸軍大学校に着任した時、その堂々たる威厳にドイツ軍人の典型を学生たちは見たが、その容貌は禿頭赭顔とくとうしゃがんで多少滑稽こっけい
であったため、学生たちは、 「渋柿しぶがき
おやじ」 と、ひそかにあだなをつけた。 開講早々、この渋柿は 「わが精強なるドイツ軍人の一個連隊を予に指揮せしめれば、諸君が全日本陸軍を率いてうちかかろうとも、これを粉砕することはさほどの苦労はいらぬであろう」 と言って、学生たちのどぎもをぬいた。学生の中にはこの無礼を怒り、終生この異国人を憎んだ者もいた。
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