海軍兵学校の生活は日本的習慣から断絶している。生徒の公的生活の言語も、ほとんどが英語であった。 ──
まるで英国に来たようじゃ。 と、ある生徒がこぼした。そういう私語だけが日本語といっていい。 教科書も原書であり、英人教官の術科教育もすべて英語で、返答もいちいち英語でなければならない。号令も大半が英語であり、技術上の術語も、軍艦の大小の部分についての名称もほとんどが英語であった。 「お前たちは留学する必要がない」 と、かつて英国で教育を受けた日本人教官が真之らに言い、幸福だと思え、と言った。まだ明治初期の頃の海軍士官の多くは政府の方針として海外留学をした。 たとえば真之が入校したころ
「天城 」 の艦長であった山本権兵衛は日本の海軍兵学校の出身だが、少尉補になってから、同期生七人と共にドイツ軍艦の乗組みを命ぜられた。日本の海軍省はドイツの海軍省に対し、これら八人の生活費その他の費用を払って軍艦ヴィネタ号に乗せたのである。そういう留学方式だった。 理想からいえば欧米の一流国の海軍兵学校に日本の留学生を入れてもらえるのが最良であるに違いないが、そのことは先方が拒否した。なぜ断られたのか、理由はよくわからない。一つには機密保護ということもあったであろう。 東郷平八郎は真之の兵学校入校当時は軍艦
「大和やまと 」 の艦長であり、新任早々の大佐であった。 東郷の履歴は風変わりであった。彼は薩摩藩士として最初藩の海軍に属し、
「春日かすが 」 乗組の三等士官として戊辰戦争に出征し、阿波沖海戦、宮古みやこ
湾海戦に参加した。宮古湾海戦では旧幕艦 「回天」 をもって斬り込んで来た旧新撰組副長土方歳三ひじかたとしぞうらの海上突撃隊と戦い、終始艦尾の機関砲をあやつってこれを撃退した。 戦後、東京に出て英語を学んだ。彼は海軍を辞めて工学関係の技師になりたいというのが志望だったらしい。その旨を先輩に相談すると、 ──
やはり海軍がよかろう。 と説得され、やがて英国留学を命ぜられた。日本政府としてはこの青年をダートマストの海軍兵学校に留学させるつもりであったが、英国側が断った。 そのかわり、テームズ河畔の商船学校に入り、水夫待遇で商船教育を受けた。この学校は優秀な卒業生数人に限って海軍士官になる道が開かれており、多少の海軍教育もしていたから、まったく無縁の学校でもなかった。 真之らの先輩の多くはそういう履歴であった。真之らが日本に居ながらにして本場の英国式海軍教育を受けられるようになったのは、それだけ明治日本の進歩といっていい。
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