〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/10/30 (木) 

海 軍 兵 学 校 (三)

この月の最初の土曜日は、雨だった。子規は学校から下宿に戻ると、
── 正岡常規つねのり 殿
と、見おぼえのある筆跡で書かれた封筒が机の上にのっている。
(なんぞな)
と思ってひらくと、はたして真之の手紙であり、子規は思わず窓ぎわへ走った。
障子をあけ、そとの雨あかりを入れてひらくと、手紙は数行であった。
「予は都合あり、予備門を退学せり、志を変じ、海軍において身を立てんとす。 ずらくはけい との約束を反故ほご にせしことにして、いまより海上へ去る上はふたたび兄と相会うこtなかるべし。自愛を祈る」
という意味のもので、この年齢の若者らしく感傷にみちている。
子規は、しばらくぼう然とした。やがて、壁の上を見た。そこに鉛筆の線で大きな人のかたちが描かれている。かつて真之が書いたものであった。
真之は徹夜勉強が得意で、寄席などへ行ったあとはかならずこれをやった。あるとき子規も、 「 あし・・ もやる」 と言い、
── さあ徹夜の競争じゃ。
と言いながら机を並べたのだが、夜半になると子規の体力が尽き、ついに壁にもたれて眠りこけてしまった。真之はのちの証拠としてその人がた・・ を鉛筆でとった。
あげな・・・ ことをしおって)
と、その壁の線描を見ているうちに、真之の手紙の感傷が乗り移ったのか、涙があふれて始末の困った。なにやらこれで真之とは今生こんじょう の別れであるような、そんな気がした。
翌日、松山中学の同輩で、やはり東京に出て来ている柳原正之まさゆき (のちの極堂) がやって来て、
「近ごろ、秋山はどうしたぞな」
と聞いた。子規は海軍へ転じた、と言い、あとはくわしく言わず、かつて真之が語っていた言葉を伝えた。
「明治も二十年に近づいて来ると、学生の数がどんどんふえてくる。将来は大学生の数がちまたにふえ、 あし・・ など鈍才は相手にされんようになる。そう言っておったが、あの男はその言葉通りに行動した」
他の学生にも、子規はそう伝えた。
── 海軍?
と、たれもが妙な顔をした。たれの頭にも海軍についての概念が乏しく、どう想像して論じていいのかよくわからないらしかった。
真之は、この年十二月に入校した。この期に入った者は五十五人であり、真之の入学試験の成績はこの中で十五番であった。ただし、一学年を終わってから首席になり、ずっとそれで通した。
『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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