明治十九年十二月の寒い日、真之は築地の海軍兵学校に入校した。 この日、真之ら五十五人の海軍生徒の目をうばったのは、築地東海岸に錨を降ろしている軍艦
「筑波 」 であった。 「あれが、われわれの練習艦だ」 と、案内役の古参生徒に説明された時、このわずか二千トン足らずの軍艦に山を仰ぐような威容が感ぜられた。 それよりも入校生たちの驚異だったのは、その日の昼食にライスカレーが出たことであった。その名前さえ知らぬ者がほとんどだったが、真之は大学予備門の生活でこういうものには馴れていたから、めずらしくなく食った。 さらに一同を当惑させたのは、洋服であった。洋服を着用する経験は真之以外はみな初めてで、なかにはシャツのボタンをどうはめていいか分からず、顔を真っ赤にして苦心している者もいた。真之はさっさと洋服を着た。そういう様子を見て、 「秋山、おまえは洋行がえりか」 と、大まじめに聞く者もいた。それほど、この当時の日本の普通の生活と海軍兵学校の生活には差があった。いわば、この築地の一郭五万坪だけが生活様式として外国であったと言えるであろう。 もっとも、海軍兵学校もその沿革えんかく
をたどると、最初からそうであったわけではない。 海軍兵学寮といわれた最初の頃は、練習艦の居住室も畳敷であった。冬は火鉢を置いた。そのころ日本海軍の傭やとい
教師であった英国人ホーズ大尉はこの状態を見かね、時の海軍担当の兵部少輔川村純義に対し、 「見苦しい上に火の用心が悪い。艦内ではなににもまして火気取締りを厳重にする必要がある。よろしく釣床ハンモッグ
にあらためよ。また火鉢を廃すべし。喫煙の場所をさだめ、かつ喫煙の時間もさだめよ。すべて制度を英国海軍にならう方がいい」 と献言したため、以後海軍では日本式生活と決別けつべつ
することになった。明治四年のことである。 ついでながらこの海軍における日本式生活というものには、妙な珍談が残っている。 幕末、幕府がはじめて長崎において海軍伝習所をつくり、オランダ人教師によって海軍士官を養成した時、昼飯どきになると生徒たちは甲板上にめいめい鍋と七輪を持ち出し、ばたばたと火をおこして煮炊きし、オランダ人を閉口させたという。 明治初期の兵学寮時代は、粗放をもって豪傑ぶる気風が生徒たちの間に持ち込まれ、第一期の生徒であった薩摩出身の上村むらかみ
彦之丞ひこのじょう などは毎日喧嘩を日課とし、勉強をしている生徒をみつけると容赦会釈ようしゃえしゃくなしになぐりつけたりした。おなじく薩摩出身の山本権兵衛ごんのひょうえ
などは教師に向かい、 「戦争ゆっさ
も知らず、何バ説くか」 と高声で嘲弄ちょうろう
した。権兵衛は戊辰ぼしん 戦争の出征兵あがりであった。 が、それらの悪習慣は真之らのころにはすでになく、すべて英国式になっていた。
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