真之
は、海軍に入ることを決意した。 ── 兄さん、海軍兵学寮ちゅうのはどこにあるぞな。 というほど、海軍知識にはうとかった。そもそも海軍兵学寮ということすらも間違っている。 海軍士官の養成学校がそういう名前だったのは明治九年までのことで、その後は
「海軍兵学校」 という名前に変わっている。 築地つきじ
にあった。 「入学手続きは、聞いておいてやる」 と、好古よしふる
はめずらしく言った。いつもなら自分で聞きに行け、というところだったが、幸い、海軍士官に知りあいがいたらしい。 翌日、好古は前ぶれもなしに真之の下宿を訪れた。おどろいて二階から降りて来た真之に、 「願書受付は、明日で打ち切りだぞ」 と、ひとこと言って出てしまった。真之は大あわてで袴をはき、築地まで走った。走らなくてもよさそうだが、気が急いだ。 明治海軍が築地をもってその技術訓練の根拠地にしたのは、すでに明治二年からであった。場所は、築地安芸橋内あきばしうち
である。 建築に当っては、多くの大名屋敷をつぶした。尾張藩蔵屋敷、芸州広島藩下屋敷、奥州白河藩下屋敷、一橋家ひとつばしけ
下屋敷、山城淀よど 藩中屋敷、増山河内守かわちのかみ
上屋敷、同中屋敷、それに旗本屋敷五軒のぶんを加え、すべて五万坪の用地である。 校舎は最初はバラック二棟であったが、明治四年、和洋折衷せっちゅう
の新しい建物が建てられ、その外壁はナマコ壁でつくられ、その偉容は東京の新名所になった。 さらに明治十六年、築地川にそうて二階建てレンガづくりの建物が出来上がり、東京屈指の洋館とされた。 真之が走ってその洋館にたどり着いた時昼前であった。まず建物の偉容におどろき、 (大学予備門よりりっぱじゃ) と思った。 願書の書式や必要書類について教えを受け、その足で大学予備門にもどえい、即日退学の手続きをとった。予備門の事務員はあっけにとられた顔で真之をみつめ、 「秋山さん、短気はいけませぬよ」 と、ひょっとすると気でもふれたのではないかという顔をした。 「なぜ退学するんです」 「一身上の都合つごう
じゃ」 と、真之は手続きを急がせた。 翌日、兵学校への志願手続きをすべて終えたが、子規にはだまっていた。どういうわけか子規にだけは海軍転出をうちあける勇気がなかった。 入学試験は、二回に分けて行われる。 その最初の試験が九月二十六日に行われた。志願者は二百五十人ほどであり、五十人ほどが採用されるという。 最初の試験は、身体検査その他で、これは難なく合格した。つぎの試験は学科試験で、これは十月十二日に行われた。 |