明治十六年二月、好古は数えて二十五歳で陸軍騎兵中尉に任官している。 この年の四月七日、陸軍大学校に入校を命ぜられた。 「兄
さん、陸軍にも大学がでけたか」 と真之が言ったが、無口な好古は黙っていた。 「何をする大学ぞな」 と、真之が聞いたが、好古は無言でいた。何をする学校か、好古にもよく分からないがとにかく戦略、戦術の最高のものをそこで教え、その卒業生を将来の参謀や将官にするということだけは分かっている。 「学生は何人じゃな」 「十五人」 と、好古は言った。日本陸軍のすべての青年士官の中から、わずか十五人が選ばれただけだという。 「兄さんは、よほど偉いのじゃな」 真之は言った。真之にすれば素朴にたたえただけであったが、好古の好みでは、言っても言わなくてもいいような無駄口は嫌いであった。 「お前は、口数が多すぎる」 と、どなった。真之はふくれた。 「しかし偉いものを偉いと言うのは、かまやせんじゃろが」 「騎兵だからだ。偉くはない」 好古は、自分でもそう思っていた。この年の日本陸軍の騎兵科というのは下士官と兵を合わせてその人数はわずか五百五十一人で、将校はたった三十五人しかいない。その中から選ばれたのだからたいしたことはない、と好古は言うのである。 「しかし陸軍大学校に入る以上は、将来の日本騎兵はわしが率いねばばらぬだろう」 と、好古は言った。ほら・・
でも大言壮語でもなく、自然にそうならざるを得ず、好古の能力次第で騎兵の能力が決まって行くと言っていい。 新設された陸軍大学校は和田倉門付近の旧大名屋敷を改造して、当分そこに置かれることになった。 好古は四月九日付で入校したが、入校してから意外に思ったのは、戦略や戦術が教えられるわけではなかった。 「それは、外国人傭やとい
教師が来てからだ」 ということであった。 陸軍大学校幹事は岡本四郎という歩兵大佐で、入校学生に対し、 「きみたちは、数学が出来ない。それをざっと十ヶ月で教える」 と言うのである。 数学とは、代数の事であった。好古らの士官学校教育は速成だったために、歩兵科と騎兵科は数学教育が省略されていた。ただ砲兵科と工兵科だけは兵科の性質上、数学は十分に教えられていた。 結局、外国人が来るまでということで、この明治十六年いっぱいは、代数と地質学といった中学生が習うような普通学科で明け暮れした。
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