この時期、多美が乳母から聞いていたことは、 「秋山さんは、陸軍の大学にお入りになるんですって」 ということであった。 そのころ、創設ほどもない日本陸軍もようやく陸軍大学校というものを設置しようとしていた。 列強は、そいおう制度をとっている、正規将校の養成は士官学校で行い、彼らが尉官になってからとくに優秀な者を選び、参謀と将官を養成するための大学校に入れ、戦術、戦略をはじめあらゆる高等軍事学を教える。 日本陸軍はとにかくその設置だけは決めたが、しかしその高等軍事学を教えるべきかんじんの教官がいなかった。 ──
外国から連れて来い。 ということになった。 最初、フランス陸軍から呼ぼうということになった。当然であった。日本陸軍は旧幕府の頃からフランス式であり、秋山好古なども士官学校ではその式を学び、彼の知っている外国語といえばフランス語であった。 が、当時日本では、 ──
フランス陸軍にはもはやナポレオンの栄光は生きていない。むしろこれからはドイツ (プロシア) 陸軍の戦術、編制こそ、世界軍事界の先端をゆくことになるだろう。 という意見が強くなりはじめており、むしろドイツ陸軍の参謀本部から呼ぶべきである、ということになった。 このため大山巌
と桂太郎がドイツに人さがしに行くことになり、ベルリンに入り、時の陸軍大臣フォン・ゼレンドルフに依頼した。 ゼレンドルフは、それを参謀総長モルトケに相談した。 モルトケは近代陸軍の戦術思想を一変させた天才であり、このころすでに八十五歳であったが、ドイツ陸軍は彼を退職せしめず、なお参謀総長の現職につかせていた。 モルトケは一諾いちだく
し、 「メッケル参謀少佐がよかろう」 と言った。 メッケルというのは、クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルと言い、今年四十三歳で独身であった。モルトケの愛弟子まなでし
であり、参謀大尉フォン・デル・ゴルツとともに、この時期のドイツ陸軍の至宝ろされていた。 それを東洋の、その国名すらヨーロッパ人にとってなじみの薄い日本にやろうというのである。契約は一年であった。 これをモルトケから聞いたメッケルは即答せず、明日まで考えさせてくれ、と言った。 その間メッケルは日本人に会い、 「日本ではモーゼル・ワインが手に入るか」 という一事だけを聞いた。無類の酒好きで、もしモーゼル・ワインが日本で手に入らなければこの日本行きを断ろうと思っていた。日本人は、
「横浜でなら手に入る」 と言った。この返事でメッケルは日本行きを決意した。メッケルの日本陸軍における功績は後の日露戦争の勝利までつながっていく事を思えば、運命のモーゼル・ワインであったと言っていい。 |