多美はそれでも関心はあった。 「秋山さんのご兄弟を見ていますと、へたな落語
よりおかしゅうございますよ」 と、乳母が離れの様子を教えてくれた。兄弟で、一つ茶碗でめしを食っているというのである。 「そういうお道具もないの」 多美はおどろいた。 「貧乏なのかしら」 「そりゃもう、貧乏にきまっております」 軍人の給料の低さというのはこの当時世間の評判であった。しかしそれにしても茶碗の一つぐらい買えないはずはなかった。 「お酒でございますよ」 と、乳母は言った。好古は、毎日五合は酒を飲む。夏は焼酎しょうちゅう
を飲んだ。 どうにも酒が必要な体質らしい。後年の話になるが、多美と結婚した後は好古はすでに高級士官であったかが、持って帰って来る給料袋がほとんどから・・
の月もあった。 この下級尉官の頃、料理屋などに行ける身分ではなかったから、友人を下宿に呼んだり、自分が訪ねたりして飲んだ。 砲兵に徳久という少佐がいた。 兵科も違うし上官でもあったが、徳久は好古の酒の飲み方が面白いというのでよく自宅に招いた。 ある日、徳久家で痛飲し、帰路、さすがに酔った。足がもつれた。 たまたまその辺りにスリが会合していて、 「あの士官の長靴ちょうか
をすれるか」 ということで、銀平というスリがあとをつけ、好古に接近した。やがて好古は路傍に尻餅をつき、しばらく息を入れていると、 「旦那」 と、銀平は身を寄せた。 が、好古の両眼が異様に大きいため銀平はひるんでしまい、 (舐な
めるとやられる) と思い、計画を変えた。 「あっしはスリなんです」 と、正直に打ち明けた。さらに自分が旦那の長靴をする・・
ということを仲間と約束してしまったことを打ち明け、 ── このとおりでやす。 と、おがんだ。 好古は、息を吐いた。 無言である。やがて、 「やばこは、持たんか」 と言った。スリは横浜辺りで買ったらしい上等の両切りをふところから取り出し、好古にさし出した。 好古は一本を抜き、口にくわえた。くわえたままである。ついでながら好古は非常な喫煙家でありながら、不精ぶしょう
のせいか。生涯マッチというものを持ったことがなかった。 やむなくスリが、火をつけてやった。 好古はおそらくこの煙草の一本と交換というつもりだったのか、黙って片足を出した。スリはぺこぺこ頭を下げて長靴をぬがした。 好古はこの夜は片っ方の靴だけで帰っている。そういう話も、乳母の口から多美の耳に入っていた。
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