好古が離れを借りている旧旗本の佐久間家には、 「お姫
さま」 と呼ばれている十四歳の小娘がいる。名を、多美たみ
といった。狆ちん のように可愛い目をしていたので、好古は、ある日、つい、 「狆」 よ呼んだ。多美は女児ながらよほど腹にすえかねたのか、それきり好古と顔をあわせても口をきかなかった。 「あのお方jは、陪臣ばいしん
でございますからね」 と、多美の乳母うば
がそう教えた。 すでに明治も十五、六年経ったというのに、東京の山ノ手ではまだそういう身分意識がおとろえずに生きていた。おなじ士族でも旧旗本は大名と同様、もともとは将軍家の直臣じきしん
だったから、好古の秋山氏のような大名の家来びんをマタモノ、陪臣と呼び、そのぶんだけさげすものである。乳母にすれば陪臣だからはしたないのだ、ということで多美をなぐさめたのであろう。 もともと好古はべつにはしたなくはなかった。彼は陸軍の下級尉官ながら文官でいえば高等官であり、位階を持っている。位階を持つというのは明治初年の意識では
「天皇の旗本」 ということであり、前時代のつまり 「徳川王朝」 の旗本に対しては今となれば身分が上であるという理屈が成り立つが、しかし佐久間家のひとびとに対しては、
「御直参ごじきさん 」 としての礼をつくしたいた。兵営から帰って来て門内で多美と顔を合わせることがあっても、好古の方から頭を下げ、 「ご機嫌よろしゅう」 と言う。多美はちょっと会釈えしゃく
を返し、やがてばたばたと駈けこんでしまう。多美ははるか後年 (好古は晩婚だった) になってまさかこの明治政府の軍人の妻に自分がなろうとは、このころ夢にも思っていない。 多美における
「離れの秋山さん」 というのは、佐久間家の家来のようなものだろうという印象であった。 維新で没落した佐久間家は、家来や中間ちゅうげん
などを整理せざるを得なかったが、それでも何人かはまだ屋敷のお長屋に残っている。整理された家来たちも、ときどきやって来ては機嫌を奉伺していた。乳母のいう 「陪臣」
とはそういうものだろうと思っていた。後年好古が求婚した時、 ── 陪臣のところに。 と多美は大真面目に驚き、「清水きよみず
の舞台から飛び降りるような気持で決心した」 と、晩年になるまでその時の動揺を子供たちに語った。 多美には、両親がすでに亡な
くなっており、祖父が親代わりになって彼女を可愛がっていた。祖父は屋敷の者や出入りの者から、 「大殿様おおとのさま
」 と敬称されていた。こういう点でも、江戸時代と少しも変わっていない。 「秋山さんの弟さんのきたないこと」 と、乳母がときどき顔をしかめているのを多美は聞いていた。
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