正岡子規は、赤坂丹後町の須田学舎に入って漢文を習った。そのあと、神田の共立学校に入り、英語を学んだ。 「共立で勉強すると、大学予備門に入りやすい」 というのが、この当時の定評であった。いわば予備校のようなものであり、このコースは陸羯南が教えてくれた。 秋山真之も、子規と前後して共立学校に入った。授業料は、好古の給料袋から支払われた。 「なんというても、花の都じゃなあ」 と、入学早々子規が真之にささやいたのは、この学校の英語教師の発音が、まるで松山中学のそれとは違っていることであった。 英語の時間には、子規は音楽を聞く者のような態度で聞き惚れた。 「淳さん、ほんとうの英語ぞな」 と、横の真之にささやいた。 そのくせ子規は発音が不器用で、読むことを命ぜられて立ち上がってもなかなか読めず四苦八苦して出る発音は、依然として松山中学の発音だった。 真之はこの点、とびぬけて器用だった。みごとに舌をまるめて米国式のRの発音をし、教師から感心された。 「語学なんざ、ばかでも出来るのだ」 と、教壇の教師は言った。 「にわとりがとき
をつくる。そっくりまねてみろ。馬鹿ほどうまいはずだ」 と言った。真之は苦笑して 「ノボルさんよりもあし・・
の方がばかか」 とささやいた。 教師は、おもしろい男だった。この当時の日本人は英語と言う学科を畏敬いけい
し、ひどく高度なものに思いがちであったのを、そのようなかたちで水をかけ、生徒に語学をなめさせるこtによって語学への恐怖感を取り除こうとした。 教材は、パーレの
「万国史」 だった。この教師は、一ページをつづけさまに読み、しかる後に訳し、そのあとそのページを生徒に読ませ、もう一度生徒に訳させる。後年の語学教授法からみれば単純すぎるほどの教え方であった。 教師は、まるい顔をしていた。 「まるでだるまさんじゃな」 と子規が言ったことが、たまたまこの教師の生涯のあだ名になった。教師は、高橋是清これきよ
といった。 高橋是清は明治、大正、昭和の三代を通じての財政家であり、大正十年には総理大臣に親任されたことがあるが、その生涯の特徴は大蔵大臣としての業績であり、とくに危機財政の切り抜けに腕をふるい、昭和九年八十一歳で何度目かの大蔵大臣になり、同十一年八十三歳でいわゆる二・二六事件の凶弾にたおれた。 彼は日露戦争前後の頃は日銀副総裁であったが、英国に駐在して戦費調達に奔走し、苦心の末八億二千万円の外債募集に成功したことがその生涯を通じての功績になった。 それが、このころは共立学校の教師として真之らに英語を教えていた。
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