子規の東京での保護者は、前記のように陸羯南になった。 「あれはおれのあずかりものだ」 と、羯南はよく言った。友人の加藤恒忠からあずかっている、という意味だが、あずかりもの、という羯南のことばによほど深い心がこもっているらしい。 羯南は、この若者との接触が深くなるにつれて、そのなかに眠っている才能を見出した。 「ひょっとしたら、天からのあずかりものかもしれない」 という予感を持ちはじめた。羯南は子規という一個の才能のために自分が砥石
にになってやろうと思い、書籍を貸したり、議論をしたり、体をいたわらせたりした。 羯南の言論はのちの政府をふるえあがらせるほどに鋭かったが、しかし、子規に対してはあくまで優しく、高い所からものを言う態度はいっさいみせず、むろん叱るようなこともなかった。 後年のことになるが子規は結核になった。のち、その悪化とともに当時の医者の診断でいう
「ルチュー毒類似」 というリューマチに似た症状を併発し、それに床とこ
ずれと悪性腫物しゅもつ がくわわり、言葉に絶する激痛がおそった。 「うめくか、叫ぶか、泣くか、または黙ってこらえているかする。そのなかで黙ってこらえているのが一番苦しい。盛んにうめき、左官に叫び、盛んに泣くと、少しく痛みが減ずる」 と、子規は
「墨汁一滴ぼくじゅういってき」
に書いている。そういうとき、羯南がしばしば病床を見舞った。子規が痛みのために叫ぶと、羯南は子規の手をしっかりつかんで、 「ああよしよし、僕がいる僕がいる」 と言ってくれたという。 子規は友人の夏目漱石にも
「羯南のような徳のある人は類が少ない」 と書き送っているが、そういう感情的な (感情のゆたかな、という意味であろう)
人に手を握ってもらったりひたい・・・
をなでてもらったりすると、もうそれだけで神経がやすまり苦痛がやわらぐように思える、とも子規はまわりの人に語っていたという。 陸羯南は、子規の個人教師であった。 「あずかりものである」 という羯南の言葉には、そういう気持がこもっていた。 ひとつには、この時代の一種の気風かも知れなかった。先輩であるということは、後輩に対して一個の教育者であるという気持が自然ともたれていたのであろう。 秋山好古が、その弟真之に対する態度も、兄というよりはあたまから教育者であった。 ゆきかたは、羯南とちがっている。 一種の野蛮主義バーバリズム
である。ある日、真之が新聞を読んでいると、 「そんなものは長ちょう
じて読め」 と、ひったくってしまった。当時の新聞は論説専門のもので、政府に噛みついたり、自由民権を鼓吹こすい
したりするものが多く、好古に言わせれば 「おのれの意見もない者が、他人の意見を読むと害になるばかりだ」 ということであったのであろう。 |