騎兵は、偵察にも任ずる。しかし戦場におけるその本務は、集団をもって敵を乗馬襲撃するにあり、西洋ではこれをもっとも華やかな兵科としていた。 が、このいかにも西洋くさい兵科のおこりは、西洋ではなく、モンゴルのジンギス汗
であった。モンゴル人たちはヨーロッパを侵略したとき、騎兵集団の白刃突撃の戦法をくり返しておこない、つねに成功した。 近世におけるこの古法を採用し、近代化したのがプロシャのフレデリック大王であろう。 フレデリック大王はつねに騎兵を決戦兵種として用い、百戦百勝した。彼は騎兵の特徴である速力を最大限に評価し、もっとも短時間に敵に肉薄襲撃させるために馬上の射撃をすら禁じた。馬上射撃をする者は私刑に処するという軍法すら出した。 ついで、この用法の天才はナポレオンであった。彼も白刃を振るっての襲撃を騎兵の本則とさせた。このはかナポレオンが創始した騎兵の新しい役割は、捜索であった。その軽快な行動力を利用して敵陣深くこれを放はな
ち、敵情を偵察させた。このため、ナポレオンは重騎兵と軽騎兵の二種類をつくった。重騎兵には胸甲きょうこう
を着せ、槍をふるって敵中に突入せしめる。軽騎兵は装備を軽くし、捜索のみに任じさせた。ほかに重と軽の中間の騎兵として 「竜騎兵」 というものもつくった。竜騎兵は銃を背にかついでときに徒歩戦にも任じた。 明治初年の日本陸軍はすべてフランス式をまねたが、騎兵だけはまねることが困難であった。 まず、馬がない。 鞍くら
その他の装備にも金がかかりすぎる。 などがその理由であったが、なによりも騎兵など必要度が薄い、という観念がこの兵種の拡充を怠慢にしたといえるであろう。 「この日本に、騎兵を使うような戦場があるか」 と、陸軍の首脳たちは言った。日本は地形が複雑で、平地も水田が多く、騎馬隊の急速な移動が困難であった。 「敵が攻めて来ても、歩兵と砲兵で足りる」 というのである。 明治維新政府というのは幕末の尊皇攘夷運動から成立したものであり、外国の侵略を防ぐということに主眼を置き、他国に戦場を求めるというような思想はなかった。 むろん、維新成立の三十余年後に、満州の曠野こうや
で世界最大の陸軍国と決戦するというような予想をもった者はたれひとりなく、 「騎兵は無用の長物だ」 ということが、その発足ほっそく
早々から常にささやかれつづけてきた。 好古は後年、 ── 騎兵の父 といわれたが、この人物は二十四、五の下級尉官のころから日本騎兵の育成と成長についてほとんど一人で苦慮し、その方策を練りつづけて来た。
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