真之は、まだよくのみこめない。 兄の商売である騎兵というものが、であった。 「すると、源平合戦や戦国の合戦に出て来る騎馬武者というのは騎兵ではありゃせんのかな」 「ちがうな」 好古は言った。 「あれは歩兵の将校が馬に乗っているというだけのことだ。騎兵ではない。本当の騎兵を日本史に求めるとすれば」 と、好古は言った。 「源義経とその軍隊だな」 好古に言わせれば、源平の頃から戦国にかけて日本の武士の精神と技術が大いに昂揚発達し、世界戦史の水準を抜くほどの合戦もいくつか見られるが、しかし乗馬部隊を集団としてもちいた武将は義経だけであった。 日本の旧武士のありかたは、乗馬の武士が幾人かの歩卒をしたがえて戦場に出る。 そういう小単位の集まりをもって一軍をなし、それでいくさをする。 それだけのことである。 ──
乗馬兵だけで一部隊を編成すればどうか。 ということは、日本人は考えなかった。 乗馬部隊の特質というのは、まずその機動性にあるであろう。本軍から離れて千里の遠きへ行くことが出来る。さらに密集して敵の思わぬ時期に戦場に出現すれば敵を一挙に潰乱させることが出来る。 ところがその欠点もある。脆さである。奇襲にしても事前に敵に発見されれば敵の持つあらゆる重軽火器がこの騎兵団に向けられ、目標が大きいだけにばたばたと倒されてしまう。その長所と欠点をよくのみこんだ天才的な武将がこの騎兵を運用すれば大きな効果を上げることが出来るが、凡庸な大将ではそういう放れわざはとうていできない。 「騎兵の襲撃が成功した例は、西洋でもまれと言っていい」 と、好古は言った。 義経が一ノ谷を小部隊の騎兵で襲撃して成功した。平家が守る一ノ谷城
(今の神戸市) については、源範頼の源氏本軍が平面から攻めていたが、義経は京都で騎兵団を編成し、ひそかに丹波篠山へ迂回し、山路を通って三草高原を越え、やがて鵯越へ出て一ノ谷に向かって逆落としの奇襲をかけた。また屋島襲撃も小部隊の騎兵をもってした。 その後、この戦術はほろんだ。戦国の頃織田信長が桶狭間合戦においてこれを用いたのが唯一の例であり、以後、豊臣、徳川時代えお通じてこの戦法は忘れられた。 「天才のみがやれる戦法だ」 と、好古は言った。 真之は、素直に感心した。 (この兄は天才かも知れない) と、ひそかに思った。 |