〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-V』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/10/20 (月) 

真 之 (二十三)

ちなみにこの時期、秋山好古は隊付勤務から転じて士官学校づきになっている。いわば選ばれたコースといっていいであろう。
もっとも好古は故郷の父に対しては、
あし・・ がえらいからではない」
というむね のことを書き送っていた。というのは好古と同期に騎科を卒業した者はわずか三人しかいなかった。あと二人は、橋本謙二、東常久である。
その程度しか新任士官を必要としなかったのが、日本の騎兵の現状であった。馬も、日本馬を使っていた。西洋馬からみれば仔馬こうま のようであり、歩き方まで犬に似てコトコトと歩く。要するに騎兵そのものが微弱きわまるものであり、正規教育を受けた将校も少ない。好古は 「だから士官学校の教官になった」 という。
「はいれ」
と、好古は門のクグリから先ず自分が入り背後の弟に言った。
佐久間屋敷には、邸内に茶畑がある。そこを通って離れに行き、好古は長靴ちょうか をぬいだ。すでに、めしは出来上がっている。佐久間家の老女中との約束で、めしだけは炊いてくれることになっているのである。
兄弟で、夕食が始まった。
── 兄さん、これだけですか。
と真之がいいたかったほど、この日の夕食はまずしかった。
そこに置かれている副食物といえば、たくあんだけである。もっとも 「この日」 だけではなく、好古はいつもこの程度の食事ですませていた。好古のこの極端な素食については、すでに有名であった。好古は他の士官や、郷党の後輩などに、
「よかったら、おれんとこに下宿せい」
と、よくすすめた。すすめられた者は十日ほどそのとおりにするが、みなこの素食に閉口して逃げ出した。
好古の素食には、べつに主義があったわけではなく、
── 腹がふくれればええじゃろ。
というだけの、単純な目的主義 (これが生活のすべてにわたっての好古の生き方だが) によるものであり、それ以外に粗食哲学などはない。 「人間は滋養をとることが大事である」 という西洋の医学思想はすでに入っており、他のひともよく好古にその思想をすすめたが、
「べつだんこれで痛痒つうよう を感じていない」
と好古は答えるばかりであった。事実、この粗食で十分隊務に服しえたし、のち人間離れのしたエネルギーを発揮したコサック騎兵との戦いにも十分堪ええたし、七十二歳で病没するまでつねに血色はあかあかとしていた。
もっとも、好古は酒を好んだ。この兄弟対面の夕も弟にはましを食わせ、自分は酒を飲んだ。
奇妙なことに、好古は茶碗を一つしか持っていなかった。一つの茶碗に酒をつぎ、ぐっと飲むとそのから 茶碗を弟にわたす。弟はそれで飯を食う。その間、好古は待っている。ときどき、
「早く食え」
と、急きたてた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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