秋山真之が中学を中退して上京したのは、この年の秋である。 三津浜から出航する時、桟橋
まで見送りに来てくれた人たちの中で、旧藩時代、秋山家の上司だった徒士かち
組の組頭が進み出て、 「伊予松山藩の名をたからしめよ」 と、この少年をはげました。見送る人びとが大まじめでみなうなずいたところをみると、そういう時代であった。 しかし、真之にはよく分からない。なぜならば彼だ生まれたときは明治元年であり、すでに幕府はなくなっていた。 船に乗った。 甲板かんぱん
の手すりにもたれて桟橋の人びとを見つめていると、この腕白小僧が不覚にも泣きだしてしまった。 真之と同行者に、山内直枝という三つほど年上の従兄がいる。それが、 「淳さん、泣くのはおやめ」 と、肩に手をおいた。これが真之のかん・・
にさわった。 「泣いちゃ、おらんぞな」 と、するどく振り返ったが、目が真っ赤になっていた。 船は、新八幡丸という。神戸までの船賃は一円二十銭であった。神戸から横浜までの船賃は四円である。
「下等」 とよばれる一般船室はぶた小屋のようで、船旅はくるしく、三日もするとかならず船室から病人が出た。 東京に着いてもっとも珍しかったのは鉄道馬車であった。 レールの上を馬車が走るのである。レールは新橋から日本橋まで敷かれており、ただの路上と違い、馬車は
「天馬空くう をゆくごとく」
かるがると走って行く。 この文明開化のシンボルのような交通機関が開設されたのは明治十五年六月だから、真之らはその評判の真っ最中にそれを見たwかであった。 「淳さんや」 と、そのレールのそばに立った山内直枝は兄貴株らしくもなく、青くなってしまった。 彼らにすればこのレール敷きの道路を越えて向こう側へ行きたいのだが、踏みまたいで横切っていいものかどうか判断に迷ってしまったのである。 「淳さんや、こりゃ、どうしたもんぞな」 と、山内は泣き出しそうな顔で言った。またいでは叱られるのか、それとも田舎者じゃといわれて軽蔑されるのか、そこのところを山内はおそれたのである。 「そりゃ、山内の兄あに
さんがわからんことが、あし・・
になにわかるぞな」 と、真之は不愉快そうに言った。 「淳さん、お前、先にまたげ」 と、山内は兄貴株としてそう命じた。 真之はレールをまたぎ、そのまますらすらと向こう側に横切ったが、 「田舎者とは、それほど東京をおそれたものだ」 と、真之は晩年になってもこの話を一ツ話のようにして話した。
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