子規がひとり動き出来るようになったのは、叔父の加藤恒忠の尽力によるが、加藤よりもさらに彼のために力になったのは加藤の友人の陸羯南である。羯南は子規にとって生涯の恩人だった。 羯南 本名は、実。 旧津軽藩士の次男である。 明治九年に上京して、当時司法省が秀才養成のためにつくっていた司法省法学校
(東京大学法学部の前身) に入った。その時加藤恒忠もこの学校に入った。 ほかに、原
敬たかし がいる。 国分こくぶ
青せいがい 、福本日南もいる。 どの当時、この学校は校長以下薩摩藩で運営されており、その運営態度が羯南にとって気にくわず、ついに校長と衝突して放校になってしまった。 その後北海道に渡ったが、ほどなく東京に帰り、太政官だじょうかん
(政府) 文書局の翻訳官になり、フランスの法律関係のものなどを訳していた。ほどなくやめ、新聞 「東京電報」 の社長になり、やがて新聞
「日本」 をおこし、明治四十年病没するまで明治の言論界の巨峰をなした。 子規が訪ねて行った時は羯南はまだ若く、翻訳官のころだった。 羯南は後年、当時を追想して、 「ある日、加藤がやって来ておい・・
のやつが田舎からやって来る。わしはその面倒をみねばばらんのだが、すでにフランス行きが決まっているから、君にそれを頼みたい、と言った。やがてその少年がやって来た」 と、言っている。 初対面の時の子規の印象は、 「十五、六のまだほんの小僧で、浴衣ゆかた
一枚に兵児へこ 帯おび
といった、いかにも田舎から出て来たばかりという書生ッコだった。そのくせどこか無頓着なところがあって」 と、羯南は言う。 「加藤の叔父が行けと言うから来ました」 というほか、子規は何も言わなかったらしい。羯南はその素朴さが気に入った。羯南はことばの鄭重な人で、 「いかにも加藤君から話は聞いております。ときどきあそびにお越しください」 と、羯南のいう小僧・・
に言った。しかしそれ以上は双方に話題がなく、羯南はしかたなく、 「私の方にも同じお年ごろの者が書生をしております。引き合わせましょう」 と言った。羯南のおい・・
であった。小僧には小僧を配はい
するがいいと思ったのだろう。 ところがその羯南のおい・・
と話しはじめた子規の様子は、初印象の小僧ではなかった。 「言葉の端々によほど大人びたところがる。相手の者はおなじくらいの年齢でもまるで比較にならぬ」 「叔父の加藤という男も」 と、羯南はつづける。 「私より二つも若い男だが、学校のころから才学ともにすぐれて私よりは大人であった。さすが加藤のおい・・
だと思った」 子規はのち、羯南の世話になり、その事を思い出すといつも涙が出る、と言い、その友人夏目漱石にも 「あの人ほど徳のあった人はない」 と語っている。 |