子規は、松山を出た。 ──
万里の波濤 を越え、東都へ行く。 と、子規は船中で述懐している。後年、ひとびとが日本からアメリカへ行くよりも距離感は大きかったであろう。 この頃の船は、神戸までである。上陸して一泊し、神戸・横浜行路に乗り換える。あわせて四、五日はかかった。 このころ、子規は数えて十七歳である。その上京の志は、のちの文学者子規からは逆算できない。どうやら文学青年の上京といったものではなく、この少年は天下でも取りに行くような気持でいた。明治初年の気風であろう。 当時の子規の書簡を意訳すると、 「功名こうみょう
は天下衆人があらそうて得ようとするところのものである。しかしながら功名は金持ちや貴族の専有物ではない。学べばわれわれ庶人の子も公卿になることが出来る」 公家という言葉を使っている。公卿とは、天子の直臣じきしん
である。さらに、 「私どもは公卿になることにみを欲しないが、しかし社会の上流に立とうと思っている。それには学問を勉強する以外にない」 と書き、一転して、 「今日の天下は如何いかん
」 と言う。この少年が、日本国家を背負う気概を示し、 「今日の天下は漸進ぜんしん
主義ではいけない。速成であるべきである。人間もまた速成でなければならない。田舎の中学で学問をしていてもなるほど学問は成るが、それでは時間がかかりすぎる。速成は都府の学校にあり」 鉄道は横浜から東京までしかない。子規はそれを利用し、六月十四日新橋停車場についた。 「着けばすぐ旧藩主邸に挨拶に上がるように」 と、叔父の加藤恒忠から注意されていたから、停車場から人力車に乗り、日本橋区浜町の久松邸に向かった。途中銀座裏を通過したのは朝の八時ごろだったが、そのきたなさにあきれ、 「東京はこんなにきたなみ所かと思えり」 と、国もとの友人に書き送っている。明治十六年の銀座裏は、東京の中でもっともきたない場所のひとつだった。 子規は浜町の久松家のお長屋に起居することになった。 着いた翌日、叔父の加藤恒忠を向島むこうじま
に訪ねた。 この日が十五日、加藤にとっては十日ほどすればフランス行きのために東京を離れねばならなかったので、気ぜわしい時期であった。 「大学予備門はむずかしいぞな」 と、まずこのおい・・
をおどした。そのための準備に予備校へ行かねばならない。 「赤坂の須田学舎がよかろう」 と、加藤恒忠は言った。その入学手続きも、すべて加藤がやってくれていた。 「あとのことはあし・・の友人の陸羯南くがかつなん
にたのんでおいたけれ、あすにでもあいさつにゆけ」 と言った。陸羯南はのち子規にとって生涯のよき理解者になった。 |