明治十六年六月、正岡子規は中学校を五年生で中退して東京へ行くことになった。 「升は思い立つと、待
てしばし・・・ がない子じゃけん」 と、子規の母親もこれにはこぼした。子規は後年、
「半生の喜悲」 という短い文章を書いていたが、この中に、 「余は生まれてよりうれしきことに遭あ
い思わずにこにことえ(笑) みて平気でいられざりしこと三度あり。第一は在京の叔父 (加藤恒忠)
のもとより余に東京に来きた れという手紙来たりし時」 と、書いてある。中学を中退して東京へ出るということが、松山じゅうを駈けまわりたいほどにうれしかったのであろう。 子規は、しつこかった。 ──
東京へ出たい。 とい手紙を、半年間、叔父の加藤恒忠に送り続けた。加藤はそのとど、 ── 国もとで勉強せよ。 とか、 ── せめて中学だけでも出よ。 とかいって反対し続けて来たが、この五月になってにわかに、 「出て来い」 という意見に変わったのである。このおい・・
のしつこさに根こん くたびれしたのであろう。 ひとつには加藤自身の身辺で、旧主家久松家の援助によってフランスに留学するという話がにわかに持ち上がったためでもあった。フランスに行くとなれば、子規が中学を卒業して出る頃にはもう日本にいない。世話してやる事が出来ないから、
「早々に出て来い」 ということになったにちがいなかった。 「升さんは、六月十日船出するぞな」 と、真之は母親に話した。うらやましくもあり寂しくもあった。さびしさは子規を身辺からうしなうさびしさではなく、自分が取り残されて、この松山のなまぬるい日常の中ですごしてゆかねばならぬというあせり・・・
に通じている。 「松山中学只虚名」 と、真之は、子規の作った漢詩を、父の久敬にも見せた。久敬はこのころ 「学区取締」 という名称の県吏をつとめていた。愛媛県はこの当時六つの学区にわけられ、久敬はその六学区を同役の内藤鳴雪めいせつ
(素行) 、由利ゆり
清とともに三人で管理していたから、いわば県の教育官吏であった。だから、 「おまえ、あし・・にあてつけを言うか」 と、温厚な久敬は色をなした。 「あてつけとりゃしませんがな。父さんは中学は職掌しょくしょう
外でおありる・・・・ がの」 と、真之は言った。その通り、久敬は中学を監督するほどのえら官吏ではない。 六月十日、子規は家族や親類、友人たちに送られて三津浜から出帆した。船は豊中丸であった。前記
「半生の喜悲」 に、 「もっともいやだったのは、はじめての出京で美津浜から出帆したとき」 と、正直に書いている。少年の身でひとり故郷の山河と別れることは、あれほど上京をあこがれたくせに、さすがに悲しかったらしい。 |