そういうことから、真之と子規はにわかに親しくなったが、しかし、あそび仲間としては別々のグループに属していた。 真之は夏いっぱいは水泳に明け暮れていたが、子規はそういうものにはまるで興味がないらしく、近づかなかった。 中学四年生のころは子規は当時はやりの自由民権運動の演舌に熱中していた。 「おもしろいか」 と真之が聞くと、 「こっちが聞きたいことじゃ」 と、子規は妙な事を言った。要するにおもしろいからやっているのではなく、おもしろいかどうかを考えもとめているのだ、と子規は言う。 (理屈の多いやつだ) と真之は思ったが、当時、この種の民間政論は全国でも愛媛が盛んな方であったろう。 なにぶん、自由民権運動の本場のような土佐に近く、そのうえ明治七年にこの県の県令になった岩村高俊は先に述べたように土佐人であり、県令が先頭に立ってこの運動を県下に巻き起こし、明治十年には岩村の独断をもって特設愛媛県会が出来上がった。 全国初の県会である。 これが、県下に演説流行をまきおこした。ついでながら県会議事堂というものを、
「県会座」 という。この県会座は松山中学のそばにあったため、子規らは休み時間にはこっそり出かけて行って演説の傍聴をした。 明治十四、五年ごろになると松山市内に青年演説グループがいくつも出来たが、子規は一人でその三グループの会員になるというほどに熱心だった。 「自由とは何ぞや」 といった演題で、子規は市内の会場をぶってまわったりした。 「志士きたる」 などという張り紙が、大街道の人目につく所に貼り出されていた。自由民権運動家のことを、松山では
「志士」 といっていた。 高名な植木枝盛
が松山に来て鮒家ふなや 旅館に泊った時も、中学四年の子規はなかまと一緒に旅館へ押しかけ、意見を聞いたこともある。 かといってそれがおもしろいということでもなく、 「なにかあし・・
にとって面白いことはないか」 よいうことを懸命にさがしている様子であった。真之はそういう子規からみれば、はるかになまな少年であった。 四年生の正月、真之が子規の書斎に遊びに行くと、 「淳さん、あし・・
は中学校を中退しようと思うのじゃが、どうじゃろか」 ときいた。なぜそんな心境におなり・・・
ぞな、よきくと、 「おもしろくないけれ」 と、子規は言った。文学運動のまねもし、演説のまねもしてみたが、どうもこれはというものを感じない。 「そのうえ、勉強もあまり好かんけれ」
と、子規は言う。 |