「秋山、あし
の家に遊びに来んかな」 と、学校の帰り、子規が真之をさそったのは、中学三年の夏休み前である。 「なんぞ、目のむくようなことがあるんか」 と真之が言うと、 「お前はそれじゃからいけん」 子規の批評癖ひようへき
は、このころからすでに芽生えている。真之が相変らず小学生のような腕白ぶりを発揮しているのが、子規にはうらやましくもあり、小面こづら
憎くもあった。 結局、同行した。 子規の家は、子規が生まれた翌年に湊みなと
町四丁目一番地にかわっている。 市内ながら灌漑用かんがいよう
の小川が流れている。川幅二メートルほどで、中ノ川といい、石手川のえだ川であり、水が飲めるほどに美しい。 子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映し、東側に土塀がつづき、表門がある。屋敷の広さは百八十坪ほどであった。 (正岡の家は御馬廻おうままわり
役じゃからな) 御馬廻役は戦場のあっては殿様の親衛隊隊士であり、身分は低くない。だから屋敷も広い、と真之は門を入りながらわが家と比べてそう思った。門を入って十歩行くと、正面に玄関がある。 玄関が四畳、すぐ奥が八畳の客間、その北六畳が居間、居間の東側に板敷四畳半ほどの台所兼食事場、その東が土間になっていて炊事すいじ
場になっている。 若い娘たちの声が聞こえた。 (あら、なんじゃ) と思ったが、すぐお針だということを思い出した。子規の母のお八重は未亡人になってから近所の娘たちにお針を教えている。もっとも正岡家の暮らしは士族の家禄奉還金があったうえにお八重の実家の大原家が多少面倒をみていたから、裁縫教授で家計がささえられているのではなく。いわばお八重の趣味のようなものであった。 「こっちィお出で」 と、子規は玄関から左向きにふすまを開け真之を招しょう
じ入れた。 「これがあし・・
の書斎じゃ」 と子規が言ったから、真之はおどろいた。中学三年の少年が書斎をもっているとは、真之のような子沢山のお徒士の家に育った者にはちょっと解げ
しがたい。 この書斎三畳は、母親のお八重が建て増したものである。本屋の屋根からそのまま葺ふ
き下ろした軒の低い建物で、壁なども一度ぬりの赤土色であり、いかにも粗末なものであったが、真之には御殿のように見えた。この書斎はのちに子規堂として保存された。 壁の上には、 「香雲」 とい字額がかかっている。子規の外祖父の友人である武智五友の筆である。 机が一つ。 それに本箱が二つ。 やがてお八重が菓子盆と茶を持って入って来て、 「のぼ・・
がいつもお世話になります。ようおいでなさったなもし」 と、声をかけてくれた。菓子はいりまめ・・・・
であった。 |