〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-V』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/10/13 (月) 

真 之 (十一)

中学初年級のころの秋山真之には、さほど風変わりなところはない。
小柄ながら体操が一番だったというくらいであろう。ただ文学趣味が濃厚に出て来た。
「母さん、あし・・ 歌を習いたいが」
と、母親にせがんだのは、中学の一年の終わりごろであった。母親はこの真之に特別にあまく (晩年までそうだったが) 苦しい家計ながらそれをゆるした。
「歌なら、井手先生にお習い」
と、母親がすすめた。
井手先生とは井手真棹まさお (正雄) のことで、旧藩時代は藩の け者として知られ、幕府の第二次長州征伐のとき松山藩も幕軍の一手として出陣したが、そのとき井手は長州藩の海港三田尻で長州の代表木戸孝允と談判したことがある。
幕府が瓦解してから、
── あの木戸らが出る世になったか。
と一言だけ言って時勢に対する批評をいっさい断ち、短歌結社をおこしてその主宰者になった。歌集には 「与茂芸園よもぎがその 」 などがあるが、ともかくも松山の歌人のほとんどがこの結社蓬園吟社ほうえんぎんしゃに属するほどにその門はにぎわっている。後年、子規もこの人に歌を見てもらった。
真之は少年の身ながら井手門下の一人となり、中学の二年生のころ、古今こきん 調のふるめかしい歌を めるまでになっている。

春の野に 若菜を める 乙女子おとめご は  なべてかすみ の ころも きるなり
世を捨てて 深山みやまいお の 寝ざめにも  友はありけり 小牡鹿さおしか の声

中学二年生の腕白わんぱく 小僧が、世を捨てて庵をむすぶなどとは奇妙だが、この当時の短歌修業は、いわばえそらごとの空想をして古今、新古今の気分に近づきその真似をするというようなものであった。この形式の短歌に対し、後年、子規が革命を起こして現代短歌の基礎をつくるのだが、この当時、真之も子規もむろんそういう意識はなかった。
一方、子規は漢詩に夢中だった。そういう子規に対し、真之らの腕白仲間は、
「青びょうたん」
というあだなをつけて近寄らなかった。少年のころの子規の顔は、青ぶくれしていた。
二年生の秋の大試験で子規は学業優等になり、そのほうびとして学校から数人の者が頼山陽の 「謝選拾遺しゅうい 」 という書物をもらった。ところが少年の学力ではそれがむずかしく読めなかったため、
河東静渓かわひがしせいけい先生の弟子になろう」
と申し合わせて入門した。静渓先生は旧藩時代の儒者で、今は旧藩主久松家の家扶かふ をしている。ちなみにその子がのち子規の薫陶くんとう を受けて俳人になった碧梧桐へきとうご である。
静渓先生は詩の弟子などをとったことがないが、この連中をおもしろがり、詩文の作り方を教授した。子規の仲間は五人であった。この仲間で漢詩の結社 「同親結社」 を作り、筆写の回覧雑誌を発行した。子規は 「青びょうたん」 ならが何ごとにも提案が好きで、大将になることが好きであった。
『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next