中学初年級のころの秋山真之には、さほど風変わりなところはない。 小柄ながら体操が一番だったというくらいであろう。ただ文学趣味が濃厚に出て来た。 「母さん、あし
歌を習いたいが」 と、母親にせがんだのは、中学の一年の終わりごろであった。母親はこの真之に特別にあまく (晩年までそうだったが)
苦しい家計ながらそれをゆるした。 「歌なら、井手先生にお習い」 と、母親がすすめた。 井手先生とは井手真棹まさお
(正雄) のことで、旧藩時代は藩の利き
け者として知られ、幕府の第二次長州征伐のとき松山藩も幕軍の一手として出陣したが、そのとき井手は長州藩の海港三田尻で長州の代表木戸孝允と談判したことがある。 幕府が瓦解してから、 ──
あの木戸らが出る世になったか。 と一言だけ言って時勢に対する批評をいっさい断ち、短歌結社をおこしてその主宰者になった。歌集には 「与茂芸園よもぎがその
」 などがあるが、ともかくも松山の歌人のほとんどがこの結社蓬園吟社ほうえんぎんしゃに属するほどにその門はにぎわっている。後年、子規もこの人に歌を見てもらった。 真之は少年の身ながら井手門下の一人となり、中学の二年生のころ、古今こきん
調のふるめかしい歌を詠よ めるまでになっている。 |