〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-V』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/10/13 (月) 

真 之 (十)

とにかく、
英語、数学、漢文
という三つの学科が、明治初年の教養の三本柱になっているらしい。
真之の当時の松山中学校の校長は、儒者近藤元弘である。ちなみに藩の儒者近藤名洲の長男が元修、次男が元弘、三男が元粋という順になっている。
英語教育については、
「じつにふしぎな英語だった」
と、この当時の卒業生たちは言う、発音は先生の我流で、年中酔っ払っている三輪みわ 淑載しゅくさい 先生などは、松山弁の発音をした。シー、ジー、ムーン、月を見よ、といったたぐいであった。発音より、意味に重点がおかれた。
むろん、学習専門の英語教科書などはなく、いきなり原書が用いられた。二年生ぐらいですでにパーレーの 「万国史」 を読まされ、高学年になると、ミルの 「自由之理」 が用いられた。先生もさほどの学識がなく、そのつど、
「ここのところ、不可解なり」
と、飛ばしてしまう。生徒たちもそれを当然なこに思った。維新後十年そこそこというのに、松山の田舎でミルの 「自由之理」 の英文が完全にわかるような教師がいるはずがなかった。しかし英語教師は啓蒙けいもう 思想家をも兼ね、
── 自由とはいかに大切か。
ということを教壇上から教えた。この点、原書を教材にすることは一種の便利さがあり、パーレーの 「万国史」 にしても、この当時の中学には歴史という科目がなかったから、それを英語学習としておそわることによって生徒たちはおぼろげながら世界史のあらましを知った。
物理は、幕末、維新のころから既に翻訳されているガノー 「窮理書きゅうりしょ 」 というものを使ったが、実験などはなかった。図画というものも水彩の絵具など、東京や大阪でも入手しにくいものであったから、すべてエンピツ画であった。
数学は、
「うめぼし」 というあだなの吉枝尚徳よしえだひさのりという先生が教えた。先生にあだなをつけることがさかんなのは、後年、子規の友人でこの中学校の英語教師になってやって来た夏目漱石が小説 「坊ちゃん」 でそのことを書いているが、すでに開校当時からその風があったらしい。
漢文の永野豊氏という先生は、
「アンコロ」
というあだなであった。アンコロは作文を専門に教えた。漢文の主任の先生は村井俊明である。
この人は江戸詰めの藩士の子で、きれいな東京弁をつかった。大正十二年六十七歳で死ぬまで教育界にあり、その教え子は五千人を越えるといわれた。教材は、 「十八史略」 、 「靖献遺言せいけんいげん」 、「皇朝史略」 、「日本政記」 などだが、おそらく漢文科先生の学問水準がもっとも高かったであろう。
柔術、剣術はない。そのかわり洋式体操科がある。東京からやって来た 「若縫姫わかぬいひめ 」 というあだなの若い教師で、着任早々、英語で号令をかけて生徒の度ぎもをぬいた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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