明治十二年、真之も子規も勝山小学校を卒業して松山中学に入った。 中学校の校舎は、勝山小学校と同様、以前の藩校明教館の敷地の中にある。 中学が出来た時、 「これで松山もたいしたもんじゃ」 と、旧藩の連中はよろこんだ。明治五年ごろから全国の大小の藩の旧城下にぞくぞく中学が作られつつあり、愛媛県ではそういううわさを聞いてあせっていた。愛媛県も作りたかったが、洋式の学問をした人材が少なく、校長の適任者がなかった。 明治七年、土佐出身の岩村高俊
が権令ごんれい でやって来てからこの方面に力をそそぎ、同八年、東京から草間時福という慶応義塾出身の青年を呼んで来て英学所をたて、草間を校長にした。ついで翌九年にこれを昇格し、 「愛媛県変則中学校」 と名づけた。変則というのは
「教授内容が揃わないため政府の中学校規定からはずれている中学校」 という意味である。 真之や子規が入学する前年、この 「変則」 の文字がとれ、 ──
愛媛県立松山中学校 となった。今の愛媛県立東高校の前身で、真之や子規らは正則になってからの第二期生になる。名校長といわれた草間時福はすでに松山を去っているから、彼らはその教えに接しなかった。 この当時、中学校がどの県においても最高学府であったが、教育内容というのはきわめて簡素であった。 科目は、 漢文、英語、数学、理科
(物理、化学、博物) 、図画、体操 という六科目であった。 「どうもいまどきの中学校は」 と、真之の父の久敬は、 「人間の道を教えんかれ、いけんの」
とこぼしていたが、その言葉どおり修身などは旧弊きゅうへい
であるとしてどの中学校でも設けられなかった。全国を風靡ふうび
している思潮は 「旧弊打破」 であり、この旧弊の中に国語も含められ、その種の科目はいっさい組み入れらていない。 その後、文部省にたれがそう献言したのか、 「外国では自国の言葉についてさかんに教授している。中学に国語科を設けねばならない」 ということで、真之らが入学して二、三年経った明治十四、五年ごろ、はじめて国語科が松山中学ににも設けられた。ところが、英語の場合よりも教師をみつけるのに難渋なんじゅう
し、結局、 ── 神主でもやとうか。 とまでなったが、そうもいかず、とにかく旧藩時代に多少国学をやった者を連れて来て教壇に立たせた。しかし漢文のように教授法に伝統のある学科でないため、教師自身、古文の何をどう教えるべきかがわからず、自然授業は無味乾燥で生徒たちがこれほど嫌がった教科もなかった。
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