真之の少年時代の中で、最大の事件と言えば、兄好古の帰省であった。 真之が十歳の時、明治十年の夏、暑中休暇で好古は帰って来たが前ぶれはしていない。 好古は三津浜『船から降り、下士官服に似た士官学校の制服を着て町へ入って来た。そういう好古を最初に街角で見かけたのは、幼友達の鴨川
正幸であった。 「そこへ行くは秋山の信さんじゃあるまいか」 鴨川は、松山弁でなまぬるく言ったが、気持はほどくせきこんでいる。この鴨川正幸は好古と大阪の師範学校で一緒だったし、その後鴨川は松屋に帰って教員伝習所で教鞭をとっている。好古が士官学校に入ったことは聞いていたから、 (この兵隊姿が、きっとそうじゃろう) と思いながら、声をかけたのである。好古は振り向いた。 やあ、鴨川か、と立ち止まった。鴨川はなつかしいよりもなによりも、好古が士官学校に入ったことがうらやましくてならず、 「士官学校ちゅうのは、やはり官費かな?」 とたしかめてから、 「あし・・
も田舎で薄ぼんやり過ごしていてもつまらんけん、士官学校ィでも入ろうと思うんじゃが、どんなもんじゃな」 鴨川にすれば、本気であった。士官学校に入ればフランス語が学べるという。彼の当時の語学というのは宝石のように希少価値があり、語学が学べる場所など日本でいくつもなかった。ところが好古は、 「やめえ、やめえ」 と、帽子の下から汗を流しながら手を振った。鴨川は驚き、何なん
してや、と聞くと、 「何してて・
、あげなところ、なんぼか辛うてたまらん」 と、好古は頭を振った。 まったくその言葉通り、この好古の入った期の士官学校というのは辛い課業を生徒に課した。まだ西南戦争は終わっておらず、陸軍当局としては生徒を在学中に戦地へやるもくろみでいたから、速成の士官教育を計画し、一年でやる学課や実技を半年で詰め込もうとするやりかたであり、この暑中休暇も規定でいえば夏に五週間ということであるのに、今年は十日だけしかなかった。 「信さんでも、つらいかねや」 これには鴨川も驚いた。銭湯にやとわれて水汲み風呂焚きをした好古の姿を鴨川は幼友達だっただけによく知っており、その好古が辛がるようでは、 (あし・・
はどうにもならんな) と思った。鴨川は師範学校の成績は好古よりよかったが、体には自信がない。それに好古の話を聞くと今は戦時下でフランス語の勉強よりも実技ばかりをやらされるから、鴨川が思っているような学校ではなさそうであった。 「ほなら、やめた」 鴨川は言い、好古と別れた。好古は、こんな地獄のような学校は人にすすめられんと本気で思っていたし、
「田舎でぼんやりしていてもつまらんから士官学校へでも」 といういうな鴨川にはとくに無理だと思った。 |