子規は、そうではないらしい。 文芸史上、あれほど剛胆な革新活動をした正岡子規も、幼少の頃は
「升さんほど臆病な児もない」 といわれた。 六つか七つの頃、松山ではじめて能
狂言の興行が一般に公開され、町中の評判になり、子規も祖父の大原観山に連れられて見物に行ったとところ、 「こわいこわい」 と最初から両耳をふさぎ、顔を伏せ、ついに泣き出したため仕方なく乳母うば
を呼んで家へ連れて帰らせた。どこが恐いのかと母親があとで訊くと、 「お能のつづみや大鼓おおかわ
の音が恐い」 と言った。 子規を可愛がっている外祖父の観山もこれには大いに嘆き、 「武士の家に生まれて能の拍子をおじる・・・
(こわがる) ようでは行く末が案じられる」 と言って子規を叱ったが、子規にとって幸いなことにすぜに武士の世ではなくなっていた。 そのころ、士族の子供は町家の子供と遊ばず、以前からの藩士組織である
「組」 の子供が組ごとに群むら
がって遊ぶのだが、時に町方の子と集団で喧嘩をする時がある。そういう時は子規だけは大急ぎで帰って来て家の中で息をひそめていた。 「のぼ・・
はんなんとしたことじゃろう」 と、母親が呆然とした事がある。ついでながら子規の母のお八重やえ
は、ひとり息子の子規が死ぬまで升のぼる
と言わずのぼ・・ と呼んでいた。 ある日、子規が小学校の帰り、真っ蒼になって逃げ帰って来たことがある。わるい子にいじめられたのかと訊くと、うんにゃ・・・・
という。犬が追うてきたのかと訊くと、そうでもないと答えた。 「では、何ぞな?」 「母さま、米藤の塀があろうがの」 米藤とは、城下きっての呉服屋である。その家には長い塀が続いている。 「塀が、どうしたぞ」 「塀の上から、下女が顔を出していた」 真っ昼間、下女が顔をのぞかせているだけでおじた・・・
というのは少し異常であろう。 しかしこれは臆病というよりも、病的なほどに豊富な想像力が、下女の顔一つを見ても途方もない想像を脳裡に描かせてそのために恐くなるのかも知れなかった。 後年、子規は竹馬ちくば
の友の秋山真之とともに生涯文学をやろうと誓い合うのだが、しかし幼少の頃は真之の方がはるかにその才能の萌芽ほうが
がありげであり、子規にはそういう気配もなかった。 それどころか、言葉の覚えが他の子供よりもとくべつ遅かったらしく、三つになってもろくに言葉がしゃべれず、ハルという名の下女に対しても、 「アブ、アブ」 と、そんな片言でしかその名を呼べなかった。 子規は真之とは違い、六つの時に父の隼太はやた
をなくし、母親の手で育てられたが、真之より恵まれていたのは外祖父の大原観山の手塩にかかったという点で、教育環境がいわばよかったということであろう。 |