塾は、大街道
にある。 この明治初年でも、塾に通う子は一種のカバンのようなものを肩からつけていた。 手製の物で、板二枚を合わせ、板の上と下に穴があいている。それに真田さなだ
ひもを通しその板の間に書物をはさみ、ひもを肩からかけて出かけて行く。 塾の開講は、夕方ではない。 早朝であった。小学校の始業前に塾へ通うのである。そのために暗がりから家を出て塾へ行かねばならない。 塾に着くと、たいてい門が閉し
まっている。しかし子供たちは先着順に門の前の並んでいる。門が開かれると、その順で入り、その順にすわる。 机は、経机きょうづくえ
であった。 やがて先生が現れるが、先生といっても近藤先生じきじきの授業ではなくお弟子さんが代講する。 先生は出来るだけこわい顔をして正面にすわっている。馬術で用いる竹の鞭むち
を持ち、膝の上に立てている。 素読の教材は、論語か孟子であった。一日半頁ページ
ほど読む。 解釈はない。先ず先生が朗読される。すこし節ふし
のついた素読特有の読み方で、先生によっては上体をゆすって拍子をとりながら読んでゆく。それが終わると、子供たちがそのふしのあままに唱和する。さらに一人づつ読みあげる。少しでも読み間違えると、先生が立てている鞭が飛び、びしっと机をたたく。この恐ろしさはそのつど息が止まるほどであった。 解釈はいっさいなかったが、毎日のようにして朗読していると、漢字の音の響きが子供心にも美しい物として分かって来る。意味もおぼろげながら分かるようになるものらしい。 これが、 「淳さん」 といわれた秋山真之の少年期の塾であった。 「升さん」
といわれた正岡子規が通っていた塾は、土屋久明の塾である。 もっとも子規は外祖父が松山第一の学者である大原観山であるため、小学校にあがるまでは観山翁みずからの手で素読を教わるという幸運を享う
けた。観山翁の教授は朝五時から六時までであった。この老人は子規を愛し、 「升はなんぼ沢山教えても覚えるけれ、教えるのが楽しみじゃ」 と言っていたと云う。子規が小学校へあがると、観山翁は、後輩の儒者である土屋久明に子規の漢学教育を依頼した。土屋久明はかつて藩の藩儒だった人だが、観山翁からその愛孫を頼まれたことを名誉とし、ひとにも自慢し、このためじきじきに教授した。この点も子規は幸運であったであろう。 ちなみにこの土屋久明という儒者は、御一新の時にもらった家禄奉還金を利殖にまわしたりそれで商いをしたりせず、その金をことごとく使いきると、
「殿さまから頂いた御金がこれでなくなったからもうよいじゃろう」 と言って食を断ち、餓死がし
してしまった。 |