明治四年から六年にかけて、伊予松山に六つの小学校が出来た。 としは秋山真之より一つ上で、中学校から大学予備門までずっと同学だった正岡子規のばあいは、最初末広学校とうものに入った。末広町の法竜寺という寺の本堂が校舎で、寺小屋とかわらなかった。 「子規は、この小学校に入ったとき、まだまげ
を結っていた」 と、柳原極堂きょくどう
(正之) という子規の同郷の友人が書き残している。子規の母方の祖父は大原観山という旧松山藩随一の学者でながく藩儒をつとめていたが、この人が大の西洋ぎらいで、自分もちょんまげのまま生涯を通し、初孫の子規にもまげ・・
を切らさず、外出には脇差一本を帯びさせた。断髪令はすでに明治四年に出ており、町の子はことごとく丸坊主になっていたが、子規だけがそんな頭でいた。末広学校に入ると、 「まげ・・
升のぼる さん (子規の幼名)
」 といわれた。子規は従順な子だったが、このことを子供心に苦にしていた。 学校といっても寺の本堂だから、机もなかった。みな、昔の塾のように文庫ぶんこ
というものをかついで行く。箱膳のような仕組のもので、その中にスズリや筆墨ひつぼく
、書物いっさいが入っており、しかも机がわりになる。ただ、七、八歳の子にはそれをかつぐのが大変だった。 末広学校は子規が入学して一年足らずで智環学校という呼称にかわった。学科というのは習字専門であった。 「習字ばかり教えていても仕方がない。数学も読み方も教える正式の小学校が松山でも必要である」 よいうことが県でもやかましくなったが、正式の小学校というものがどういうものであるのか、役人でも見当がつかなかった。 これより少し前、松山に、 「教員伝習所」 というものが出来た。師範学校の前身である。この教員伝習所で先生の卵たちを教える先生がいなかった。すでに述べたようにこの頃全国に師範学校というものが七つしかなく愛媛えひめ
県ではその卒業生を一人、県にもまわしてくれるよう、まるで宝石でも借りに行くようにして大阪師範学校にたのんだ。 やっと卒業生が一人まわって来た。高知県士族安岡珍麿うずまろ
という青年である。大阪師範でアメリカ人に学んだとおりのことを口移しに教えた。 同時に、この伝習所に付属小学校として勝山小学校というのが出来た。安岡青年は、そこでも教鞭きょうべん
をとった。 「勝山では新しい教育をする」 というのが評判になり、子規は入学一年足らずで勝山小学校に移った。 これと同じ時期、秋山真之も勝山に移って来た。真之はそれまでの間、近藤元修の塾で学んでいたが、近藤先生から推薦されて勝山に入った。子規もそうであったが真之も小学校へ入ってからも漢学塾はやめず、二通りの教育を受けていた。塾では素読そどく
を習い、すこしそれをやると漢詩の作り方を教えられた。 |