伊予松山の町では、九つ下の弟真之が成人している。幼名を淳五郎
といった。 ── 秋山の淳ほどわるいやつはいない。 というのが、近所の評判であった。他の子供よりずっと小柄で、色が黒く、目が小気味いいほど光っている。走るときは弾丸のように早く、犬も及ばなかった。このため近所の大人は真之のいたずらをこらしめようとしても、たれもつかまえた者はいない。 ──
淳は歌よみか俳諧はいかい づくりになるのではないか。 と、父親の久敬はそうみている。言葉を記憶する能力や鋭さが、七、八歳の頃から他の子供よりもすぐれていたし、それが才分といえるのかどうか、当意即妙に飛び出すようであった。 七、八歳の頃、雪の朝、真之は厠かわや
に行くのが面倒なあまり北窓を開けてそこから放尿した。 歌を作った。 |
雪の日に 北の窓あけ シシすれば あまりの寒さに ちんこちぢまる
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というものであった。この歌をあとで父の久敬翁がみて、 ── わしも立ち小便はするが、こういう歌は作れぬ。 と、ひそかに感心した。 久敬翁は中年を過ぎてから頭髪が薄くなり、冬など頭が格別に冷えるので大黒様のような頭巾ずきん
をかぶり、いつも炬燵にあたってなにもせずににこにこしていた。ひとには、 「おれがこのような怠けるのも、みな子供のためだ」 と言っていた。親が偉くなってしまうと子供が奮起せぬというのである。 「うちの淳は歌よみじゃ」 と言って友人の間を触れまわっていると、風呂屋をやっている旧士族の戒田のオイサンが、 「淳坊にたのんでくれ」 と、妙な注文を持って来た。 オイサンの言うところでは、東京の町民は江戸の昔から銭湯に馴れていて公衆道徳をよくまもる。ところが松山の連中ときたらかかり湯もしない、だからそれをせよという歌を淳坊に作ってもらってくれ、と言う。 真之は、さっそく戒田湯へ行き、湯殿のハメ板に墨くろぐろと裸婦のうしろ姿を描き、それへ、 |
湯に入い
るに 前やうしろを よく洗い どんぶり入はい
るは 大のおきらい |
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と賛さん
を入れた。 十歳ごろになると、絵もうまくなった。松山の徒士町のあたりの子は、旧士族で絵の上手かった伊奈のオイサンというひとに凧絵たこえ
を描いてもらうのだが、真之がその絵をこっそり真似て伊奈のオイサンよりも上手くなり、仲間の子供たちに描いては呉く
れてやった。このため、 「秋山の凧」 といえば、町中の子供の評判になった。町の人はみな久敬翁が描いていると思ったらしく、真之より少し年下の俳人河東かわひがし
碧梧桐へきごどう などもまだ幼童のころ、母親に
「秋山の凧を買ってくれ」 とせがんだことを記憶しているという。 |