余談ながら、私は日露戦争というものをこの物語のある時期から書こうとしている。 小さな。 といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。 その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。今から思えば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。 その奇蹟の演出者たちは、数え方によっては数百万もおり、しぼれば数百万もいるであろう。しかし小説である以上、その代表者を選ばねばならない。 その代表者を、顕官の中からは選ばなかった。 一組の兄弟を選んだ。 すでに登場しつつあるように、伊予松山のひと、秋山好古
と秋山真之さねゆき である。この兄弟は、奇蹟を演じた人々の中ではもっとも演者たるにふさわしい。 たとえば、こうである。ロシアと戦うに当って、どうにも日本が敵し難いものがロシア側に二つあった。一つはロシア陸軍において世界最強の騎兵といわれるコサック兵集団である。 いま一つはロシア海軍における主力艦隊であった。 運命が、この兄弟にその責任を負わせた。兄の好古は、世界一脾弱ひよわ
な日本騎兵を率いざるを得なかった。騎兵は彼によって養成された。彼は心魂を傾けてコサックの研究をし、ついにそれを破る工夫を完成し、少将として出征し、満州の野において凄惨せいさん
きわまりない騎兵戦を連闘しつつかろうじて敵を破った。 弟の真之は海軍に入った。 「知謀湧くがごとし」 と言われたこの人物は、少佐で日露戦争をむかえた。 それ以前から彼はロシアの主力艦隊を破る工夫をかさね、その成案を得たとき、日本海軍は彼の能力を信頼し、東郷平八郎が率いる連合艦隊の参謀にし、三笠に乗り組ませた。東郷の作戦はことごとく彼が樹た
てた。作戦だけでなく日本海海戦の序幕の名口上ともいうべき、 「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ただち
ニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」 という電文の起草者でもあった。 この兄弟がいなければ日本はどうなっていたかわからないが、そのくせこの兄弟が、どちらも本来が軍人志願でなく、いかにも明治初年の日本的諸事情から世に出て行くあたりに、今のところ筆者はかぎりない関心を持っている。
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