合格はしたが、いつまで待っても入校せよという通知がない。 試験は一月にすんでいる、一月も何事もなく、二月も音沙汰なしにすぎた。そのうち世間が騒然として来た。 「政府は、士官学校どころではないらしい」 と、丹波篠山の本郷房太郎が、訪ねて来て好古に言った。 「薩摩が、叛乱を起こすそうだよ」 薩摩には、維新の功臣西郷隆盛が帰省している。東京の政府では再三出府をすすめたが西郷は動かない。西郷はすでに数年前、日本でただ一人の陸軍大将の現職のままで東京を離れて鹿児島に帰っているのである。しかも薩摩系の近衛士官も、少将篠原国許
、桐野きりの 利秋としあき
らを筆頭に大半が職を辞し、同地に帰り、私学校をおこし、士族の子弟に対し兵学教育をほどこしていた。 ── 薩摩が反乱を起こすのではないか。 という風評は、好古が大阪の師範学校にいたころからすでに耳にしていた。 維新後、薩摩藩は極めて複雑な性格を持っていて新政府に対し、一種の独立国として対立していた。 幕末、この藩の藩主的な位置にあった島津久光は、極端な保守的な性格を持ちながら幕政改革の烽火ほうか
をあげ、その後、側近の大久保利通としみち
ら革命派にいわばだまされて討幕の主動勢力になったが、大久保らが新政府の顕職につき、 「攘夷じょうい
」 が討幕の口実であったのに、欧化政策をとった。固陋ころう
な古典的教養人であった久光にすれば、 ── 家来どもにだまされた。 という思いが強かったであろう。このため維新後は鬱々うつうつ
として楽しまず、とくに版籍奉還から廃藩置県にかけての新政府の処置に対しては久光は 「まるで藩をつぶすために大汗かいて幕府を倒したことになる。なんたることか」
と大いに怒り、怒りのあまり、一夜、鹿児島城外磯いそ
の別邸の前の海に石炭船を浮かべ、終夜狂ったように花火を揚げさせたという。 しかも時の鹿児島県令である大山綱良つなよし
は久光の腹心であった。このため東京で決定する新政府の政策は鹿児島県まで来た時はことごとくと言っていいほど握りつぶされた。 「薩摩のみがやった維新ではない。何たることか」 と、長州派の代表である木戸孝允たかよし
は、この時期、このために健康を害したと言われるほどに怒り続けた。 この保守派の久光党とは別個に、最大の功臣である西郷は、維新政府の現実があまりにも彼の理想とは違いすぎることを不満として参議の職をなげうって帰郷し、薩摩のみは独自に
「士族」 を保存しつついわば政府に対し、武力による沈黙の威圧を加え続けてきたのである。 この二月、鹿児島にあっては私学校生徒が、城外の磯にある政府海軍の銃砲製作所を襲い、兵器弾薬を奪った。さらに、県の政情偵察のために帰郷を装よそお
って鹿児島に入っていた東京警視庁の警官およびその党類とみなされた者が私学校生徒に捕縛された。 |