好古らは、待った。 が、本郷の言うとおり、 ──
政府は士官学校の世話をしているようなゆとりはないらしい。 というのが実情であった。 この当時の海軍大輔
川村純義すみよし が西下し、尾道おのみち
から東京に電報を打ったのは二月十二日である。 「鹿児島のこと、もはや救いがたい」 というものであった。陸軍省はこれによって東京鎮台ちんだい
と大阪鎮台に対し、出動の準備を整えさせた。 同二十二日、薩軍は熊本城を包囲した。 好古らが東京で入校を待つうち、熊本では三月、四月と激戦が続いている。士官学校の世話をすべき最高の陸軍行政官である陸軍卿山県有朋はみずから
「参軍」 になって九州に下り、戦線を指揮していた。 明治十年当時、日本政府といったところで、この程度のいわば小店こみせ
であった。 「第三期生の入校どころか、前線の士官の死が相ついでいるために在校生を戦場に送ろうとしているらしい」 と、情報通の本郷房太郎が好古に教えてくれたのは、三月のはじめである。 事実であった。 すでに三月二日には、第一期生の歩兵科生徒九十六人が、入校してそこそこというのに士官見習いを命ぜられ、東京、名古屋、大阪の三鎮台に配属された。さらには砲兵科生徒、騎兵科生徒も動員された。 ついには教育未熟の第二期生徒全員百四十人が動員され、神戸で待機するということになった。その上、校長の少将曾我そが
裕準すけのり までが動員されてしまい、学校は空家同然になった。これでは好古らを入校させることが出来ないであろう。 (わずか、地方の反乱で、国の機能が停止するほどの騒ぎになるのか) と、好古は、わが身に関係のあるこの事態について考え、あらためてこの政府の基礎のもろさに驚かされた。 戦いはなお続いていたが、政府でもおそらく峠を越えたと思ったのであろう。にわかに士官学校の機能を回復させ、四日から入校を命ずる、よいう通知が、合格者百名に対して達せられた。 好古は、入校した。入校の日、下士官の軍服に似た肋骨服ろっこつふく
と軍帽を支給された。靴ももらった。服や靴を身につけるのははじめてで、 「靴ちゅうのはむずかゆいのう」 と、あちこちで悲鳴に似た声があった。しかし靴は貴重品であるため一般の演習の時はわらじをはかせるという話であった。 修業年限も、公示された。 第一学年で基礎学課を学ぶ。代数、幾何きか
、三角、重学じゅうがく (力学のこと)
、理学、化学、地学、それに歩兵、騎兵の教練がこれに加わる。 第二、第三学年で専門課程を学ぶ。兵学、軍政学、築城学、兵器学、地理図学、交通通信学
(鉄道通信のこと) などであった。 入校生は、ごく単純で質朴しつぼく
なものであったらしい |