十日ほど、何の通知もなかった。毎日、寮で待っていた。 ──
こりゃ、落ちたな。 と、好古は思った。旧藩にもし有力者がおれば陸軍に問い合わせてもらえるのだが、伊予松山藩の場合はそういう便宜もなかった。 ──
本郷に様子を聞こう。 と思った。あの本郷房太郎の藩は丹波篠山でわずか六万石の青山
左京大夫さきょうだゆう 家だが、この藩は維新で乗り遅れたあと、にわかに奮起した。明和三年、大坂から関世美という学者を呼んで振徳堂という藩校をたて、藩士が七歳になると入学せしめ、十五歳で卒業させていたが、維新後思い切った改革を試みた。本郷房太郎もっこに入っている。 好古はsの士官学校の試験のあと、本郷からこの話を聞いて、 ──
篠山はばかにならぬ。 と思った。伊予松山は十五万石とはいえ維新で官軍に占領された時の衝撃が大きく教育制度を篠山ほど早く整えることが出来なった。篠山では、明治六年、城下の民家を借りて小学校が開設され、士族以外の者でも入学させた。本郷も振徳堂からこの小学校に移ったという。 しかも、山国のわりに、松山よりも便利なことは、明治八年、丹波に隣接する但馬たじま
の豊岡に 「豊岡県教員伝習所」 ── 神戸・御影師範みかげしはん
の前身 ── という高等教育機関が出来たことであった。本郷はここに入った。この点、好古と似ている。 本郷はこの養成所にいらが、彼のとって運がよかったことは、まだ年若い旧藩主青山忠誠ただしげ
が大名にしては跳ねっかえりとさえいえるほどの時勢感覚の持ち主であることであった。この旧藩主は、篠山では、 「従五位じゅうごい
さま」 と呼ばれている。若い従五位さまは、 「自分の藩は、時勢に遅れた。今後、思い切った事をすべきである」 と言い、みずからが兵隊になろうとした。 この時代にすれば、異常な事であった。戊辰戦争で官軍に参加した藩は多いが、藩主みずからが兵を率いて行った例は一件もない。ところが篠山の旧藩主が自分が兵隊になるという。 当時、東京ではすでに兵学寮幼年舎
(幼年学校) というものが出来ていた。旧藩主青山忠誠はここへ入校した。 やがて士官学校へ進むことになった。こに入校についてはこの従五位さまの学友として旧藩士の中から同年の秀才三人を選び、養育生として東京に連れて行くことになった。これに本郷が選ばれた。 本郷は青山家の費用をもって前年の明治九年三月に東京へ出て来て赤坂新町五町目の青山家に入り、受験勉強のために儒者芳野よしの
金陵きんりょう の塾に入った。 ──
篠山はいわば、旧藩が総がかりで受験のための勉強をしている。 と好古は思った。それならば及落のことも本郷を通じて旧篠山藩邸で聞いてもらえば分かるだろうと思ったのである。
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