明治の日本は、戊辰国内戦争の砲声の中から誕生している。 それら戊辰から明治初年にかけて活躍する軍隊は、諸藩のいわば私軍であり、京都から東京に移った新政権は直属軍を持たなかった。軍隊を持たぬ革命政権というのは、それ以前もその後もないといっていいであろう。 その後、薩長土の三藩が藩兵を献上し、それを中核にして少しずつ
「中央軍」 が出来つつあったが、士官養成の制度は長く不備であった。陸軍士官学校というものが出来たのは、明治七年も十一月になってからである。同八年に第一期生を募集した。 好古がもしこの学校に同格するとなれば第三期生ということになる。 「場所は市ヶ谷の尾州
さまのお屋敷だよ」 と教えられて来た。 道々、 ── 士官学校はどこです。 と聞いても、たいていはさあね、と首を振るばかりで知らなかったが、市ヶ原の尾州さまはどこです。と言えばすぐ答えてくれた。東京といっても現実の地理はまだ江戸であった。
市ヶ谷に入って旧大名屋敷や旗本屋敷はそのままで残り、一望六割ほどが田園であった。左内坂さないざか
をのぼって行くと、にわかに西洋風の門がある。 衛門があり、そこで来訪の意を告げると、兵隊が案内してくれた。校庭は広く、あちこちに日本瓦を葺いた木造二階建ての、まるで異人館のような校舎が建っている。 事務室に入らされた。 軍曹ぐんそう
が出て来て、 「矢立やたて
はあるか」 と、好古の腰を見た。好古は、曾祖父が愛用していたと言う唐獅子からじじ
を彫った赤銅あかがね の矢立を腰から抜いて示した。 軍曹は、願書の書式を教えた。 部屋の奥の方に士官がいた。色白で目が細くあご・・
の張った男で、近づいて来て、 「おまえはどこの藩かな」 と言った。大尉である。校庭で見たフランス士官にそっくりの軍服を着ていたが、顔はあきらかに日本人で、なまりは長州であった。 (これが、日本の士官服か) と、好古は生まれて初めて士官というものの実物を見た。あとで知ったことだが、寺内てらうち
正毅まさたけ と言い、長州藩の諸隊あがりの士官で、生徒司令副官という役目をつとめていた。 「試験は、漢文と英語と数学じゃ」 と、大尉は言った。 好古は驚いた。英語というのは師範学校のころに一年ほど習ったが、数学はほとんど知らない。漢文だけは幼少のころからやって来たから多少の自信があった。それを話すと、 「では漢文だけで受けい」 と、この大尉はひどく大ざっぱなのとを言った。要するにどの学課であれ、試験官が答案から頭の内容を察し、よければ合格させようというものであるらしい。 |