正辰は、年はまだ三十前かと思える。ときどき東京の言葉をつかう。 このことは、明治二年、藩命によって東京にのぼり、慶応義塾へ入って福沢諭吉に学んだことと無縁ではない。 松山では秀才で聞こえこの男が、たかが師範学校の付属小学校主事をしているといのは、戊辰
のとき賊方にまわった松山藩の出身だからにちがいな。 「それでもおれはいいほうよ」 と、和久正辰は言った。 「官途かんと
につけたのだから」 と言う。 「他は、みじめなものさ」 だから後進を誘掖ゆうえき
する義務がおれにはあると言う。光った顔である。 薄あばたがある。額がいかにも精気ありげに黄色くぬけあがり、縮ちぢ
れ毛げ が後頭部でそよいでいる。 「君はおとなしそうだな」 と、正辰はすこし酔ってきた。 「まあ、おとなしいほうですら・
」 「いかんな」 正辰に言わせると、教育者はすこし乱暴な方がいいという。 「透す
き通った乱暴さが必要だ」 と言う。 「こどもは精気のかたまりだからね」 その精気に負けない精気でぶつからないとこっちの魂がこどもに沁み通らない、 「教育と言うのは力相撲のようなものだぜ」
と、正辰は言った。 「力ならあります」 「腕力というものじゃない」 正辰は、だんだん酔ってきた。 「薩長の子弟はな」 と言う。薩長の子弟のうち秀才たちはみな官界に入ろうとする。もしくは陸海軍に入ろうとする。栄達が待っているのだろう」 「ところが賊軍はそうはいかないよ」 正辰が、こんど全国に七つ出来た師範学校の在校書生の藩名をみると、ほとんどが旧幕時代に賊にまわった藩か、維新のとき何の働きも出来なかった小藩の子弟ばかりだというのである。そういう天下の貧乏士族の子弟のあこがれのまとが師範学校の官費生ななることであった。 「日本の政治と軍事は薩長がやる。教育はわれら非藩閥人がやる」 「町人百姓の子弟はいかがです」
「われらはね」 江戸時代を通じてこれらの庶民には原則として教育の場が与えられていなかったため無学者が多く、社会意識が低く、庶民であってもまだ国民としての自覚も意識もない。 「それらを教育するのが、われわれ非藩閥人の仕事だぜ」 和久は親切だった。下宿までととのえてくれており、そこまで連れて行ってくれた。 大きな士族屋敷だった。 「ここのあるじは、世が世なれば、御三家のひとつ尾張徳川家の御大身の身分だ」 と、門前で解説した。 好古は、そこから毎日学校に通うことになった。 年が明けて、明治十年になった。 ──
耳よりな話がある。 と、和久正辰が言い出したのは、このころである。 |