この秋山好古という若者は、のち軍人になり、日本の騎兵を育成し、日露役
のとき、世界でもっとも弱体とされていた日本の騎兵集団を率い、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇蹟を遂げた。 この勝利は日露の一騎ごとの実力によるものではないであろう。要するに好古の用兵と彼の対コサック戦術の研究の勝利であったといえるが、そういうことなどを様々思い合わせると、この秋山好古以外の者が日本の騎兵を受け持っていたならばどういう結果になったか分からない。 「秋山好古の生涯の意味は満州の野で世界最強の騎兵集団を破ったというただ一点に尽きている」 と、、戦後、千葉の陸軍騎兵学校を参観に来ていたあるフランス人が言った。 が、この数えて十八歳の当時この若者には軍人になろうという意識はまったくなく、もしあったところで薩長藩閥以外の青年がそういう世界に行けるなどとは、世間の常識として一応も二応も無理であったであろう。 この当時の好古にすれば、 「あし・・
は、食うことを考えている」 それだけであった。士族が没落した今日、伊予松山の旧藩士族の三男坊としては、どのようにして世を渡ればひとなみに食えるかということだけが関心であった。この点、好古はおなじ境遇の士族の子弟とかわらない。 ともかくも、官費で師範学校は出た。師範学校出といえば明治九年の当節、日本中で数えるほどしかおらず、ほとんどが、卒業後すぐ校長になってそれぞれの小学校に赴任した。 好古は、とりあえずかつて勤務した野田小学校の紅鳥先生を訪ね、礼を述べた。 「おまえがまさか」 この学校の校長になって来るのではあるまいな
── と、この校長はまず声をあげて恐怖を示した。紅鳥などはいわば小学校草分けのころのどさくさでその職につたにすぎず、政府としてはこの種の無資格者をおいおい平教員におとし、師範学校出の者に校長職をとらせる方針であった。 「いいえ、あし・・
は齢が足りません」 「十八だな」 紅鳥は、ほっとした顔をした。 「で、任地はどこになった」 「愛知県立名古屋師範学校に付属小学校が出来ましたので、そこに参ります」 「俸禄は」 月三十円である。 これには、紅鳥先生は仰天ぎょうてん
せざるを得なかった。紅鳥ですら、十七円である。 ちなみに ── やがてこの物語に登場する正岡子規が、この時期よりはるかのちの明治二十五年、二十六歳で日本新聞社に入社したときの給料が十五円であった。 「お豆腐ほどお金をこしらえてあげるぞな」 と、
「信坊」 といわれていた十歳のとき、父に言った言葉が、八年後に実現した。 「信坊」 は名古屋へ出発した。 |