〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-V』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/09/27 (土) 

春 や 春 (十五)

好古は、結局転針した。
── 無理をしても、師範学校に入ろう。
と思い立った。無理というのは、年齢であった。数え年十九歳以上というのが国家が既定した師範学校の入学資格であったが、好古は二歳足りない。が、小関がまだ不確かなころであり、役所としては本人の申告を信用する態度をとっている。
(だいじょうぶだろう)
と思い、願書を書き、その生年の項は安政四年生まれとした。実際は安政六年の生まれであったが。
四月に受験をした。学力試験は漢文だけであった。口頭試問のとき、
「君は、エトは何年かね」
と聞かれた。
ひつじ・・・ どしでござりまする」
と答えると、試験管は笑った。願書の安政四年とすれば巳年みどし であるべきだった。試験官はこの受験生が年齢をごまかしていることに気づいたらしいが、黙認した。
及第し、五月に入校した。伊予松山から大阪に出て来たのは一月であったから、入校まで検定教師を勤めたのは、ほんの四ヶ月に過ぎない。
この時期、師範学校そのものが出来てほどがなく、制度も内容もあやふやであった。
最初にこういう学校が大阪に出来たのは二年前の明治六年で、場所は東区法円坂町であった。法円坂町というのは大坂城のぞばにあって、旧幕時代の官庁街である。そういう屋敷のひとつを利用して発足した。ところが翌年いったん廃止され、官立から府立になった。場所も俗に、 「御堂みどう さん」 といわれる船場南久太郎町五丁目、東本願寺別院の掛所かけしょ に移った。
好古が入学したのはここである。風変わりなのは (草創期で仕方のないことだが)
「時ヲ定メズ生徒ヲ募集ス」
ということになっている。その門に志願者さえ入ってくれば随時試験をしてくれるである。さらに風変わりであった事は、修業年限が決まっていないことであった。その生徒に学力が乏しければ年月をかけてゆっくり教え、逆に教師たるに必要な学力がそなわっておれば一年ぐらいで卒業させてくれるのである。好古も入学試験のとき試験官から、
「君はこの学校に何年いたいかね」
ろ問われた。好古は即座に、
「一年」
と答えた。好古にすれば早く学校を出て早く給料を取りたかった。給料を取ってそれを め、さらに東京の大学予備門にでも入りたいというのが、おぼろげな気持であった。
「よかろう」
と、試験官は言った。 「ただし、在学中勉強しなければ二年でも三年でも居らせる」
とつけ加えた。
授業が始まった。好古は言われたとおり勉強したが、成績はさほどに良くはなく、いつも中程度であった。
それでも一年で卒業出来た。
「三等訓導くんどう
という辞令をもらい、給料は一躍三十円にあがった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next