〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-V』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/09/25 (木) 

春 や 春 (十二)

夕食のぜん に、いわしがついている。
「大阪のいわしほどうま いいわしはない」
と寺男は言ったが、伊予のいわしに馴れた好古の舌には、どうもあぶらが濃すぎるようにおもわれた。
「旨うおますやろ」
と、寺男はほめことばを強要した。
「まあな」
好古は、士族のどの家庭もそうであるように、食べ物の味をうんぬん・・・・ してはならないと教えられている。それに、味どころではないほどに腹がすききっていた。
給仕は、寺男の娘がやってくれた。目と目が飛びはなれたのんきそうな顔で、笑うと犬歯けんし が二本、まがたま・・・・ のような形でつき出ていてそれが変に愛嬌があった。
寺男は、なおもいわしにこだわっている。
「これはちぬの海 (大阪湾) のいわしというてな、田舎いなか のいわしとはくらべものになりません」
と言う。いわしに都会と田舎の区別はないだろうと思ったが、黙っていた。
「これはおさん・・・ と言いますねや」
「いわしかな?」
「いいや、娘だす。目ぇにかけてやっとくなはれ。ええ奴だっせ」
やがて部屋と寝具を与えられたが、どうにも寒く、好古ははかま もぬがずにその上に掛けぶとんをかけた。抹香まっこう のにおいがした。
「そんなかっこうで」
と、娘が寝巻きをもって入って来て、好古を起こそうとした。親爺おやじ もその女房も入って来て、着物だけは脱げ、と言う。掛けぶとんをひきはなそうとするほどの勢いであった。
(欲深かと思えば、存外、親切なところもあるのじゃな)
と観察したが、干渉好きにはこまった。干渉ずきというより人間というものについての関心が強すぎると言った方が的確らしく、寺男はわざわざ上からのぞき込んで、
「こうして上からながめてみると、ええお顔したはるなあ」
と、際限もなくしゃべり始めた。耳のも大きいさかい金は まるやろ、しかし見ればみるほど大きいのはその鼻や、左官にでもなればすぐ親方になれる鼻や、色はぞんがい白うおまんな、などと言う。
「それにしても、なんで着たままで寝やはるのだす。ぬぎなはれ」
と、もとにもどった。好古は物に構わぬという点ではほとんど奇人に近く、着たきりで寝るなどはごく日常のことなのである。が、いまはこの親爺のうるささに えかね、
「わかった」
よ言うなり跳ね起き、くるくると着物を脱ぎ、襦袢じゅばん も脱ぎ、ついでに下帯もとってそまって、素裸になった。
これには、親爺も息をのんだが、娘は声をあげて逃げてしまった。落ち着いてその様子をながめていたのは、親爺の女房だけであった。女房は寝巻きをとってゆるゆると立ち上がり、好古の前へ進んだ。
前からうしろへまわった。そろりと着せかけた手つきはなんとも薄気味悪く、
(これは、逃げださにゃならんがの)
と、好古にひそかに決意させた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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