試験は、うまくいった。 最初は堺
県で受験し、翌日出頭すると県の役人が、 「五等助教ヲ命ズ」 という大きな免状をくれた。この免状さえあればどこの学校の代用教員にでもなれるのである。 かかりの役人が、 「まあ茶でも飲め」 と、縁側まで茶を運ばせ、あれこれと事情を聞いてくれた。 「わしは御一新ごいっしん
まで堺奉行所の与力よりき をしていた」 と、おだやかな表情で自己紹介した。堺は旧幕時代は幕府の直轄領ちょっかつりょう
であった。隣接する河内かわち
国もほぼ全域ちかく直轄領で、維新後はこの二つの旧幕領を合併して 「堺県」 とした。その県庁は最初は車之町くるまのちょう
の旧奉行所におかれていたが、明治五年神明町のこの本願寺別院に移されている。 「おまえ伊予の者なら、俳句をしようか」 と、役人は言う。伊予はむかしから俳人が多いことをこの役人は知っているらしい。 「あし・・
は致しません」 好古 ── 信さん ── が答えると、役人はほっとして、 「それならよかった。俳句や歌は児童に教えてはならんことになっている。読み書きそろばん、それに人の道だけを教える」 「あし・・
はそろばんが出来ませんが」 「それは他の者が教える」 と、役人は言う。この近畿の土地は昔から和算が盛んであったためその方面の教師なら県も不自由していなかった。 「剣術は出来るか」 「すこしは出来ますら」 「ああ、それは結構」 役人は顔をあげ、
「しかしそれを教えることは相ならぬ。お上かみ
のお達しのなかには入っておらぬ」 と言った。 役人は厠かわや
へ立った。好古も用を足したくなってついて行くと、 「おまえは、庭の厠へまわれ」 と言われた。好古がなぜですと聞くと、そういう規則だそうで、役人だけは上便所を使えるが、外来の庶民は裏門のそばにある下便所に行かねばならない。 用を足して廊下に戻ると、むこうから美髯びぜん
をたくわえた紋服の男がやって来る。廊下にいた者はみな立ちどまり、息を詰め、平伏とまではゆかないにしてもそれに近いほどに腰を折って礼をしたが、好古には何事かわからず、ぼんやり立っていた。美髯の男は近づいて、 「おはんは、何者かな」 と気安く声をかけた。好古がこんど小学教員になった者です、と答えると、そりゃしっかりやってもらわにゃならんな、と大声で言って立ち去った。あとでひとに聞くと、 「あれが県令
(知事) さまやがな」 ということであった。旧薩摩藩士の税所さいしょ
篤あつし で、旧幕時代は王事に奔走し、一時は西郷、大久保とならび称されたこともある。好古が、いまをときめく薩長人というものを見た最初の経験である。 |