新政府がやった仕事の中で、もっとも力を入れたのは教育であったであろう。 大阪府では、明治三年十二月、船場
平野町ひらのまち で府立幼学校が出来たのが最初である。 「士族は申すに及ばず、濃工商の児童も入学せよ」 とし、書籍も紙も筆も墨すみ
も官給された。翌四年二月これを 「小学校」 と改め、九月にはもう一校出来た。御堂筋みどうすじ
の東本願寺難波なんば 別院に設けられた。あわせて二校である。 ところが市内で適齢の児童は二万人ほどおり、二校ではとても足りず、 「すでに両府
── 東京と京都 ── にはあわせて百ほどの小学校が出来ている。三府といわれながら大阪府がわずかに二校ではとても話にならない」 とし、府ではこれを大量につくる計画をすすめたが、この都会は町人の町であったために、小学校教育についての理解が一般にうすく、 「道楽者をつくるのではないか」 と、むしろいやがるむき・・
もあった。文字を習わせ書を読ませると 「俳句を作ったり歌を詠んだりして商売に身を入れなくなる」 という不平が強かった。 「なるほどそのおそれもあろうけれど」 と、府ではわざわざ諭達文ゆたつぶん
を出している。 「なるほど学問をすれば花月を翫もてあそ
び詩歌に長ずるにとどまるという幣へい
もあるにはあり、父母の心配も無理はないが、しかし今日の学問は昔の学問と違い、智識をひらき行いを正しくし、長じて工人になれば良品を発明し、商人になれば商機をつかんで利益を他人にうばわれぬようになる。学問とはそういうものである」 と、功利面からこれを説いている。なぜこうまでして説論さざるを得なかったかといえば、政府に学校を大量に作る金がなく、やむなく各区各町内にその建設費を肩代わりさせざるを得なかったためであった。 「土地の繁栄を致すや必ひつ
せり」 とまで説いている。 府知事は、西四辻にしよつつじ
公業きんなり というお公卿くげ
さんであった。ともかくも百二十校をつくる計画を立て、右の二校を廃校にして明治五年には十七校を作った。同六年には大いに飛躍して四十六校を作った。同七年には九校誕生した。 ところが、教師が不足であった。 「大阪は教師不足である」 ということを、府では全国に広めた。 ちなみに徳川時代の特殊さは、知識階級が都会におらず地方にいたことであった。各藩がこぞって藩士に学問を奨励したために、五、六万石以上の大名の城下といえば知識人の密集地というぐあいにまで幕末にはなった。幕末の政治と思想のエネルギーは三百諸侯の城下町から噴ふ
き出て来たという点で、欧米の国家といちじるしく事情が異なっている。 要するに、江戸、京都、大坂には知識人が少なくなかった。この三府のなかでも大阪は武士が少数しか居住していなかったために、いざ小学校を開くとなれば、その教師を求めることに不自由した。いわば、 ──
旧武士を求む。 ということであったであろう。信さんこと秋山好古が大阪にやって来たのも、そういう事情が背景になっている。 |