この国に師範学校というものが初めて出来たのは、明治五年五月である。一校だけ東京に出来た。旧幕府の官立学校であった昌平黌
のなかに設置された。 「募集スベキ生徒ハ二十四人」 ということが定められた。これを教える教師は、傭やとい
外国人が一人である。教科書も授業内容もすべて直訳式で行われることになった。その規則によると、 「彼 (外国)
のレッテル (文章) は我 (日本) のかな・・
に直し、彼のオールド (言葉) は我の単語に改め」 ということになっている。その入学資格は、 「和漢通例の書を学びえたる者」 ということになっていて、後年のように学歴を指定することはない。学費はうわさのように官費であった。一ヶ月に十円ということになっているから、書生一人が暮らすにはまず事欠かぬであろう。 翌六年、七年の間に、大阪、仙台、名古屋、広島、長崎、新潟にも右と同様のものが設置された。 その規則書は、当然ながらこの県の学務課に来ている。 信さんは、翌日、県庁に出頭した。県庁は旧藩の施設のままだから畳敷きである。用のある民間の者は旧藩のしきたり通りその畳の上に上がることは許されず、玄関の土間で待たねばならない。 「学務課の秋山平五郎どのに。 と信さんが使丁してい
に言うと、使丁が白洲しらす にまわって座敷の上の平五郎にその旨を呼ばわるのである。 ちょんまげに紋服姿の平五郎が、玄関に出て来た。書類のたばをかかえている。 「用のむき、相わかった」 と、平五郎は言い、書類をひろげながら細かく説明し始めた。 最後に、 「そのほう、幾歳になる」 と、しらじらしく聞いた。 「十六歳」 信さんは、小声で答えた。数え年である。それを聞くなり、平五郎は急に顔をむずかしくして、 「いささか無理じゃな。年端としは
が足りぬ」 既定は十九歳以上という。小関というものがまだいいかげんなものであったから、少しの年齢ぐらいならごまかせるが、十六の少年が十九歳といつわるのは、顔つきから見て無理であった。 「三年ばかり待て」 (三年も風呂焚きが出来るか) と思った。とにかく大阪へ行きたい、と信さんが言うと、平五郎役人は、 「一つ方法がある」 と教えてくれた。検定試験による小学校教員の資格を大阪で取る事であった。 「それに合格すると助教を拝命し、月給七円を賜たま
わることになる。つづいて正教員の資格試験に合格すれば、九円を賜わる。しばらく教員をするうちに十九歳になろう。その時に師範学校を受けよ」 「大阪行きの旅費は、どうなりましょう」 「それは信三郎、私弁しゃ」 平五郎は、にがい顔をした。父親としての彼には、それを出す能力がない。 「旅費は、どうするか」 「帰宅して、父と相談仕ります。父が、なんとかしてくれましょう」 信さんは、平五郎に生き写しの貌かお
でそう言った。 |