秋山家の当主平五郎久敬
ほど逸話の少ない人物も珍しいであろう。 「あんな真面目な男もいない」 というのが、若い頃の評判であった。早くから徒士目付めつけ
という職をつとめ、篤実に勤務し、そのうち維新の瓦解がかい
が来た。士族の家禄が召し上げられ、その奉還金というのが千円足らず下がった。その千円で他の士族は商売をしたりしたが、 「あし・・
に何が出来るものか」 と、何もしなかった。その方がよかったかも知れなかった。商売に手を出した者はほとんどが失敗し、元も子もなくなり、路頭ろとう
に迷う者さえ出て来た。 平五郎久敬は、そういうなかで多少恵まれていたのは、旧藩時代のまじめな勤務ぶりを買われ、県の学務課の小役人として採用された事である。ただし薄給で、この子沢山の秋山家の家計をその給料だけでまかなう事は出来ない。
「食うだけは、食わせる。それ以外のことは自分でなんとかおし」 と言うのが、平五郎久敬の子供たちへの口癖であった。 信さんが風呂焚きをして毎日天保銭一枚を持って帰るようになったのは、いわば平五郎久敬の教育方針であった。信さんはこの天保銭で書物を買ったが、しかし風呂焚きの賃銭ぐらいでは学校へは行けなかった。 「学校へやっておくれ」 と、信さんは一度この父に頼んだことがある。平五郎久敬は、小声で言った。 「あし・・
に、銭がないよ」 この父は、ちょっとした名言を吐いた。古今の英雄豪傑はみな貧窮の中から生まれたが、あし・・
に働きがないのはいわば子のためにやっているのだ、と言った。 学費もないくせに、 「信や、貧乏がいやなら、勉強をおし」 という。これが、この時代の流行の精神であった。天下は薩長に取られたが、しかし、その藩閥政府は満天下の青少年に向かって勉強をすすめ、学問さえ出来れば国家が雇傭するというのである。全国の武士という武士はいっせいに浪人になったが、あらたな仕官の道は学問であるという。 それが食えるための道であり、とくに戊辰ぼしん
で賊側にまわった藩の旧藩士にとって、それ以外に自分を泥沼から救い出す方法はない。 (あし・・
も、学問をしたい) と、信さんは思いつづけた。であればこそ風呂焚きをし、番台にもすわって湯銭をとったり、入浴者の着物の番をしたりしている。 (日本に、ただの学校というものがないものだろうか) と、あるはずもない夢のようなことを考えていた。番台にすわりながら考えたり書物を読んだりしていると、ときどき銭湯の釣を出さずに客から注意された。とくに女客がうるさかった。 「秋山の坊ちゃんは可愛い顔をしているくせに、すこしあほうじゃなもし」 と、板場で聞こえよがしに言っているのが当然ながら耳に入った。 そのうち、信さんは耳よりなうわさを聞いた。 ──
大阪で無料ただ の学校が出来た。 というのである。
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