旧幕時代、教育制度という点では、日本はあるいは世界的な水準であったかも知れない。藩によっては、他の文明国の水準をあるいは越えていたかも知れなかった。 伊予松山藩では、 「明教館」 という藩校がある。藩士の子弟はことごとくそこに入る。明教館には小学部が付属しており
「養成舎」 といった。普通、数え年八つになれば入学した。 信さんと呼ばれていた秋山好古も、八つでその学校に入った。 明治になり、その四年、松山にも小学校が設けられ、士族も町家の子弟もそこに入ったが、間尺
の悪いことに信さんはすでに十三歳であったために、齢とし
がどっちつかずであり、 「だから入らなかった」 と、晩年語っている。入らなかったと言うのは年齢による理由だけでなく、維新後の士族の没落で家が貧窮を極めていたからでもあった。 ひきつづき松山に中学校が設けられた。 ここにも、信さんは入っていない。それどころか、信さんの毎日は労働者のそれであった。 「銭湯せんとう
の風呂ふろ 焚た
きをして居なはった」 というのが、松山に残る口碑こうひ
である。信さんはすでに十六になっている。 色白で目がとびきり大きく、しかも鼻が隆たか
すぎるという、いわば異相で、町の人は、 ── 長崎の異人のような顔じゃ。 とうわさした。大きな目の目尻が、やや垂た
れているあたりが愛嬌あいきょう
になっていた。 唇が娘のように赤く、そういう信さんが町家の町筋などを通ると、若い娘たちが声をひそめてうわさした。 じつは、近所に銭湯が出来た。戒田かいだ
さんという旧藩士が、自分の屋敷のむかいにそういう施設を建てたのである。 ── 士族が風呂屋になった。 というだけで、町中の評判になった。むろん、半分は悪評である。
「士族のくせにひとの垢あか とり稼業かぎょう
をすることがあるか」 ということであった。ところが、 「風呂屋はまだいい。秋山の坊ちゃんが風呂焚きになっている」 ということで、うわさをいっそうにぎわした。じつはこのことは信さんが頼みこんだ。 「よかろう。賃銭は、一日天保銭てんぽうせん
一枚じゃ」 と、戒田のオイサンが言った。やってみると、すさまじい労働だった。 まず燃料とりから始めねばならない。お城下から東の方に横谷という山がある。そこへ小木あやぎ
を取りに行く。そのあと、井戸のつるべをいちいち繰く
って水汲みをし、浴槽よくそう
に満たす。次いで、焚く。 あとは、番台である。 「信さんは、やるのう」 と、戒田のオッサンは毎日ほめた。このオイサンは無類のおふぁて上手で、近所の子供をおだててはこき使うためのに評判がよくなく、とくにこの信さんの件については、 「信さんが可哀そうじゃ。わずか天保銭一枚であれほど働かされては、骨も磨す
り減るじゃろう」 と、近所では罵ののし
ったり哀あわ れんだりした。 |