〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-V』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/09/23 (火) 

春 や 春 (三)

旧幕時代、教育制度という点では、日本はあるいは世界的な水準であったかも知れない。藩によっては、他の文明国の水準をあるいは越えていたかも知れなかった。
伊予松山藩では、
「明教館」
という藩校がある。藩士の子弟はことごとくそこに入る。明教館には小学部が付属しており 「養成舎」 といった。普通、数え年八つになれば入学した。
信さんと呼ばれていた秋山好古も、八つでその学校に入った。
明治になり、その四年、松山にも小学校が設けられ、士族も町家の子弟もそこに入ったが、間尺まじゃく の悪いことに信さんはすでに十三歳であったために、とし がどっちつかずであり、
「だから入らなかった」
と、晩年語っている。入らなかったと言うのは年齢による理由だけでなく、維新後の士族の没落で家が貧窮を極めていたからでもあった。
ひきつづき松山に中学校が設けられた。
ここにも、信さんは入っていない。それどころか、信さんの毎日は労働者のそれであった。
銭湯せんとう風呂ふろ きをして居なはった」
というのが、松山に残る口碑こうひ である。信さんはすでに十六になっている。
色白で目がとびきり大きく、しかも鼻がたか すぎるという、いわば異相で、町の人は、
── 長崎の異人のような顔じゃ。
とうわさした。大きな目の目尻が、やや れているあたりが愛嬌あいきょう になっていた。
唇が娘のように赤く、そういう信さんが町家の町筋などを通ると、若い娘たちが声をひそめてうわさした。
じつは、近所に銭湯が出来た。戒田かいだ さんという旧藩士が、自分の屋敷のむかいにそういう施設を建てたのである。
── 士族が風呂屋になった。
というだけで、町中の評判になった。むろん、半分は悪評である。 「士族のくせにひとのあか とり稼業かぎょう をすることがあるか」 ということであった。ところが、
「風呂屋はまだいい。秋山の坊ちゃんが風呂焚きになっている」
ということで、うわさをいっそうにぎわした。じつはこのことは信さんが頼みこんだ。
「よかろう。賃銭は、一日天保銭てんぽうせん 一枚じゃ」
と、戒田のオイサンが言った。やってみると、すさまじい労働だった。
まず燃料とりから始めねばならない。お城下から東の方に横谷という山がある。そこへ小木あやぎ を取りに行く。そのあと、井戸のつるべをいちいち って水汲みをし、浴槽よくそう に満たす。次いで、焚く。
あとは、番台である。
「信さんは、やるのう」
と、戒田のオッサンは毎日ほめた。このオイサンは無類のおふぁて上手で、近所の子供をおだててはこき使うためのに評判がよくなく、とくにこの信さんの件については、
「信さんが可哀そうじゃ。わずか天保銭一枚であれほど働かされては、骨も り減るじゃろう」
と、近所ではののし ったりあわ れんだりした。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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