伊予松山というのは領内の地味が肥
え、物実ものな りがよく、気候は温暖で、しかも郊外には道後どうご
の温泉があり、すべてが駘蕩たいとう
としているから、自然、ひとに戦闘心が薄い。 この藩は、長州征伐でも負けた。負けて悔しがるよりも、謡うた
がはやった。 長州征伐マの字にケの字 猫に紙袋かんぶくろ
で、後あと は這は
う 士族の子までうたった。 負ま
けといえば、鳥羽とば 伏見ふしみ
でも負けた。藩士は海を渡って逃げて帰った。さんざんに負けた上に城も領内も土佐藩に保管された。 「当分土州預地あずかりち
」 という高札こうさつ
が、城にも城下の四つ角にも立てらられた。 もっとも土佐人がこの松山で乱暴を働いたという事実はなかった。土佐の隊長は小笠原おがさわら
唯八ただはち と言い、淡白で知られた男で、進駐した士卒を厳重に統率し、松山藩士の感情を傷つけぬようにつとめた。 むしろ松山藩は、この小笠原唯八のためにすくわれた。なぜならば官軍の一派である長州人が海を渡って松山の海港である三津浜みつはま
に上陸した、 「先年の長州征伐のうらみを報ほう
じてやる」 と、長州人は最初から復讐ふくしゅう
に燃えてやって来たのだが、小笠原唯八がそれをばだめ、彼らを入れず、ふたたび海へ退去させた。そのとき長州人は松山藩が持っていた最大の財産である汽船を奪った。 松山藩が困り抜いたのはそういう屈辱よりも、経済問題であった。賠償金十五万両というのは、この藩の財政から見ればほとんど不可能な数字であった。 この支払いのために、藩財政は底をつき、藩士の生活は困窮こんきゅう
をきわめた。 十石取りのお徒士の家である秋山家などはとりわけ悲惨であった。 すでに四人の子がある。この教育だけでも大変であるのに、この 「土州進駐」
の明治元年 (慶応四年) 三月にまた男児が生まれた。 「いっそ、おろしてしまおうか」 と、その懐妊中、当主の平五郎が妻お貞さだ
に言った。町家や百姓家では、間引まびき
きという習慣がある。産婆さんば
にさえ頼んでおけば、産湯うぶゆ
をつかわせているときに溺死できし
させてしまうのである。が、武士の家庭ではそういう習慣がなく、さすがに実行しかねた。結局は生まれたが、その始末として、 「いっそ寺へやってしまおう」 ということになった。 それを、十歳になる信さんが聞いていて、
「あのな、そら、いけんぞな」 と、両親の前にやって来た。由来、伊予ことばというのは日本でもっとも悠長ゆうちょう
な言葉であるとされている。 「あのな、お父さん。赤ン坊をお寺へやってはいやぞな。おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどお金をこしらえてあげるぞな」 ウチと言うのは上方かみがた
では女児が自分を言う時に使うのだが、松山へいくと武家の子でもウチであるらしい。 「お豆腐ほどのお金」 というたとえも、いかにも悠長な松山らしい。藩札はんさつ
を積み重ねて豆腐ほどの厚さにしたいと、松山のおとなどもは言う。それを信さんは耳に入れていたらしい。 |