まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。 その列島の中の一つの島が四国であり、四国は、讃岐
、阿波あわ 、土佐とさ
、伊いよ 予にわかれている。伊予の首邑しゅゆう
は松山。 城は、松山城という。城下の人口は士族を含めて三万。その市街の中央に釜かま
を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間このま
がくれに高さ十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内せとうち
の天を背景に三層の天守閣がすわっている。古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓やぐら
も、そのように厳いかつ くは見えない。 この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。そのうちのひとりは、俳人になった。俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖になった正岡子規まさおかしき
である。子規は明治二十八年、この故郷の町に帰り、 春や昔 十五万石の 城下かな という句をつくった。多少あでやかすぎるところが難かもしれないが、子規は、そのあとからつづいた石川啄木たくぼく
のようには、その故郷に対し複雑な屈折をもたず、伊予松山の人情や風景ののびやかさをのびやかなままにうたいあげている点、東北と南海道の伊予との風土のちがいといえるかもしれない。
「信さん」 といわれた秋山信三郎好古よしふる
は、この町のお徒士かち の子に生まれた。お徒士は足軽より一階級上だが、上士とは言えない。秋山家は代々十石そこそこを家禄として殿様から頂戴している。信さんは安政六
(1859) 年生まれの七ヶ月児だが、成人して大男なったところを見れば、早生児というのはその後の成長にはさしつかえのないものかも知れない。 信さんが十歳になった年の春、藩も秋山家もひっくりかえってしまうという事態が起こった。 明治維新である。 「土佐の兵隊が町に来る」 ということで、藩も藩士もおびえきった。この藩の殿様は、久松家ひさまつけ
である。徳川家康の異父弟がその家祖になっており、三百諸侯のなかでは格別な待遇を受けていた。幕末、長州征伐では幕府の命を受けて海を渡り、長州領内で戦った。要するにこの時勢での区分けでは、佐幕藩であった。 おなじ四国でも、土佐は官軍である。土佐藩は、松山藩を占領すべく北上したが、その人数はわずか二百人たらずであった。 「朝廷に降伏せよ。十五万両の償金つぐないきん
を朝廷に差し出せ」 と、土佐人の若い隊長が要求し、このため藩は騒ぎになり、結局はそれに従うことになった。城も市街も領土も、一時は土佐藩が保護領として預るかたちになった。 城下の役所、寺などには、 「土州下陣げじん
」 という張り紙が出された。信さんは十歳の子供ながら、この光景が終生忘れられぬものになった。 「あれを思うと、こんにちでも腹が立つ」 と、彼は後年、フランスから故郷に出した手紙の中で洩も
らしている。 |