〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/09/04 (木) よし びな (三)

── この辺で、と。
麻鳥夫婦は、今朝、旅籠はたご でこしらえてもらって来た弁当を、ひざの上で解き合って、食べつつ、花をながめつつ、ものも言わずにいたのであった。
「・・・・・・・・」
言わぬは言うに勝る、ほどな理解が、自然何十年もの間には、ふたりの仲に出来上がっていた。
今、お互いは、何を胸で想っているのか、たぶん、それも交響しあっているに違いない。だから、飽くこともないのであろう。
ひとはし 、口へ運んでは、また手の箸を、しばらく忘れている。そして、よもぎ は蓬、麻鳥は麻鳥で、
「ああ、ずいぶん、いろんなこともあったが、長い長い年月を、別れもしないで」
と、夫婦というものの小さい長い歴史を、どっちも、無言の胸にひもと いていた。
── 思えば恐ろしい過去の半世紀だった。これからも、あんな地獄が、季節を いて、地へ降りて来ないとは、神仏も約束はしていない。
自分たちの、あわ ツブみたいな世帯は、時もあろうに、あの保元、平治という大乱前夜に、門出していた。── よくもまあ、踏み殺されずに、ここまで来たものと思う。
そして夫婦とも、こんなにまでつい生きてきて、このような春の日に会おうとは。
絶対の座と見えた院の高位高官やら、一時の木曾殿やら、平家源氏の名だたる人びとも、みな有明ありあけ けの小糠星こぬかぼし のように、消え果ててしまったのに、無力な一組の夫婦が、かえって、無事でいるなどは、何か、不思議でならない気がする。
「よくよく、わたしは倖せ者だったのだ。これまで、世に見て来たどんな栄花の中のお人よりも。・・・・また、どんなに気高く生まれついた御容貌ごきりょう よしの女子おなご たちより」
蓬は、やわらかな若草のすわり心地へ、こう、心で答えずにはいられない。
親しく、自分がお仕えした常盤ときわ さまは、あのような御運の末だし・・・・。
そのほか、女院、姫宮、お局から、君立ち川の白拍子まで、およそ、美しいがゆえに、かえってのろ われ、あたら野山の草庵そうあん にのがれて、黒髪をおろした花々なども、どれほどか、数も知れない。
「・・・・それなのに、わたしという愚痴な妻は」
かの女は、思いくらべて、そっと悔んだ。
もうびん も真白な良人おっと の横顔へ、ひそかな びも、胸でしていた。
けれど、かの女の良人にすれば 「それは、あべこべだよ」 と言いたいであろう。── 麻鳥の方こそ、じつは、この吉野へ来たら、老いたる妻へ、いちどは、男の本音として、
「よく、わしみたいな男に」
と、礼やら詫びを、言おうと考えていたのでsる。吉野の花を見せるよりは、ほんとの気持はそれだった。今日まで何一つ、これという楽しみも生活の安定も与えず、雑巾ぞうきん のように使い古してしまった妻へ、そして、わがままな男の意志へ、なんのかのとはいっても、よくついて来てくれた妻へ、彼は、あらためて、
「・・・・・・・」
何か、言ってやりたい。
けれど、そうした男の胸のものを、こっくり、いい現わせる言葉などは、みつからなかった。真情とは、そんなに簡単に、出して見せられるものではなかった。── だから、さっきから、黙っていた。が、蓬には、良人のそうした気持は充分なほど分かっていた。ふたりのひざをめぐ って、陽炎かげろう がゆらめいている。陽炎は、ふたりの言葉だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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