やっと、箸も終わって、 「美味
しかったねえ。・・・・蓬」 と、初めて、そこで声が聞かれた。 「ほんとに、夢の中で食べているみたいに、食べてしまいました」 「ほら、鶯うぐいす
が啼な いているよ、あれも迦陵頻伽かりょうびんが
と聞こえる。極楽とか天国とかいうのは、こんな日のことだろうな」 「ええ、わたくしたちの今が」 「何が人間の、幸福かといえば、つきつめたところ、まあこの辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろうよ。これなら人もゆるすし、神のとがめもあるわけはない。そして、たれにも望めることだから」 「それなのに、人はみな、位階や権力とかを、あんなにまで、血を流して争うのでしょう。もうもう、やめてくれればよいのに」 「やめれば、義経の君のようになる。そういう仕組みに出来ている世の中だから恐ろしい。また世の中は、そうしつつ進んで行く。武家幕府とやらになっては、なおさら、烈はげ
しくなるかもしれぬ」 「もし義経さまがいたら、どうなすっていたでしょう」 「疑いもなく、きっと、思いを修羅しゅら
に断って、わたしたち夫婦のように、どこか都の隅で、仲よくお暮らしなされていたろうな」 「静しずか
さまと?」 「むむ。・・・・それで思い出したが、静さまは、その後も生きていらっしゃるといううわさがある。うわさはありながら、たえて世間にお姿も見せぬのは、やはりお髪ぐし
を剃おろ されて、山の奥かどこかで、殿の御菩提ごぼだい
を弔うてでもいるものか」 「そうかも知れません。女のわたくしが、静さまのお心になってみても、今の世の中では、そうするしか・・・・」 「そうだな。ほかに女の途もない。男ならば、また生き方もあろうがの」 「けれど、うちの麻丸なども、あれで一体、どうなるんでしょう」 「鵜八どのも、よく働くと言っているし、もう心配はあるまいよ」 「でも、あんな子ですもの。今は、おとなしくしていますが」 「そう案じては、きりがない。あれの放埓ほうらつ
は、親の落度だ。あのころ、わしの愛情も、あの子へ、ほんとに届いていなかった。老いてから、つくづく思う。これからは、親のわしが、心がける」 「それにしても、医師のあなたの子が、生涯、手を真っ黒にして、染屋の紺掻こんか
き男なぞで終わったら、世間も笑うじゃありませんか」 「ばかをおいい」 つい麻鳥は、口癖で、しかってしまった。 「笑い世間の方がおかしい。なぜ、紺掻き男では、恥かしいのか。近ごろ、わしは親として、よろこんでいるんだよ。──
時おり、鵜八どのの染場へ寄ってみても、あれが、わき目もふらず、大勢の職子しょくこ
に交じって、働いている。やれやれ、これでよかった。一人の悪徒を、真面目に返せば、世間の害が、それだけ減る。親のわしも、申しわけが立つ」 「・・・・・・・」 「むしろ、気の毒なのは、あの子だよ。せっかく学問すべき盛りの年ごろを、可惜あたら
わしゆえ、暗やみで遊んでしまった。もう、今の年では間に合わぬし。頭もわしのようではない」 「・・・・・・・」 「だからといって、おまえもだが、何を世間へ恥じるのか。まじめで、ししてよく働く一個の紺掻き男と、もう亡きお方だが、頼朝どのや、梶原などという者と較くら
べても、人として、どこに負ひ
け目め がある? 院の殿上などで、よくない企たくら
みに日を偸ぬす んでいる公卿方くげがた
よりは、なんぼう、ましな人間であるかしれぬ。・・・・結構だ。あれで結構。── 人おのおのの天分と、それの一生が世間で果たす、職やら使命の違いはどうも是非がない。が、その職になり切っている者は、すべて立派だ。なんの、人間として変わりがあろう。・・・・あれもな、蓬よもぎ
」 「・・・・はい」 「どうか、達者に働いてくれて、小さくても家を持ち、よい女房でも娶めと
って、やがて、わしとおまえの今日のような一日でも老後に見ることが出来たら、それで申し分ないではないか」 「・・・・ええ。・・・・」 「もともと、わしは、柳ノ水の水守みずもり
でもして、一生を終わろうとしたものを、あのような世の乱れになり、おまえという妻にも巡りあって、ついつい、似気にげ
ない生涯をして来たが、さもなければ、紺掻き男ほどの能のう
もない水守で、井い の縁へり
の蛙かわず みたいな者だったろう。──
それを思えば、麻丸は、まじめな職を持ってくれたし、円まどか
は丈夫な孫を見せてくれるし、どれもよい子だ。不足を思うどころじゃない。そして、医の業わざ
なら、婿の安成が継ぐだろうしさ。ははは。・・・・ハハハハ。これやいけない。ここでは、こんな固苦しい話は、夢々ゆめゆめ
、おまえに聞かせるつもりじゃなかったのだよ。さあ、宿え帰ろう。旅の宿だ、今夜はどんなわがままでもわしへおいい。たまには、わしを困らせて見せないか」 蓬は、はっと、若やいで笑った。 まだ、かの女にも、姥桜うばざくら
ほどなものは、どこかに残っている。 めずらしい冗談がつい口に出て、自分の冗談に、麻鳥も笑いが止まらなかったが、ふと、妻の手を扶たす
けて起ちかけながら、起ちもやらず、後ろの方へ、眼を、みはってしまった。 ── そこには、麻丸がうっ伏ぶ
していたのである。むかしの洟はな
たれ時代の子のように、いちめんな地の花屑はなくず
吹かれさまよう草むらに両手をついて、声もなくただ泣きじゃくっていた。 |