──草の間を縫うたまり水は温
かった。目高か何かが泳いでいる。 だが、子どもらは、もっと水の冷たい早瀬に群れて、錆さ
びた兜かぶと の鉢金はちがね
やら太刀の鍔つば やらを、鵜う
の目め で、探しあっていた。 春の加茂川から、どうかすると、金きん
が拾えるといわれている。保元、平治、木曾合戦、いろんな時に、ここへは武者の打ち物や屍かばね
が流れよどむほど水漬みづ いた。今も何かが砂礫されき
の下からキラと出ないとは限らない。 それよりは、ここに遊んでいる七ツ八ツから十がらみの子どもは、この川を赤くした血の色を見ず、矢叫やたけ
びも知らずに育った。 つい二、三日前、この河原べりの、大きな紺掻こんか
き (染物屋) の干し場へ来ていた麻鳥は、それをながめて、 「ああ、義経の君へ、お見せしたい。・・・・思うても愚痴だが、あの童たちの平和な姿を御覧ごろう
じあれば、さぞ御本望であろうものを」 と、ひとり涙ぐんで帰った。 紺掻きの鵜八うはち
の家の広場では、河原へかけて、張物はりもの
や、紺溶きや、布晒ぬのざ しなどに立ち働く男女の姿が大勢見えた。──
麻鳥の息子の麻丸も、今では、ここの染工の一人だった。まじめで、気転がよく、無類に働くので、親方の鵜八も、 「はやく、よい女房でも持たせたいな。今に、よい紺掻きになるで」 と、たれへも言っている。 だが、その真面目まじめ
さを、なかなかほんとにしないのは、他人ではなく、当人の親たちであるらしい。麻鳥夫婦は、おりおりここへ来ては、 「なんとか、やっておりますか」 と、鵜八へ訊いては、帰って行く。 常陸ひたち
の勿来なこそ まで行って、金を使ったお蔭で、あのさい、麻丸以下の、首だけは、つなぎとめた。けれど、関所の獄に、三年の刑は命ぜられた。それをまた、おととしごろ、迎えに行き、やっと、親の許へ、連れ帰って来たのであった。 ──
そうした極道ごくどう な、経歴を持つ麻丸も、はや二十七、八である。べつな意味では、親の麻鳥以上、子どもではない。博奕ばくち
、女道楽、悪事のかずかず、下層社会の暗やみのことならなんでも知りつくしていよう。それを親たちがまだ不安がって、むかしなみに、意見でもすると 「・・・・・・・」
。ニヤリとただ笑ってみせるのだ。その無口な顔のうちに、昨日までの悪の体験が、どう、べつな根性となって包まれているのか。親たちにも、読み切れないのである。──
むしろ、そこは他人の鵜八が、はるかに、彼を信用していた。 「おい麻丸。一休みしないか。手でも洗って、ちょっと、こっちへ来な」 「いけませんよ、紅花べにはな
はむずかしいから、こいつを絞り上げてからにしましょう」 「まあいい。ほかに話もあるんだから」 鵜八は、彼を住居の下屋へ連れて行って。 「文覚さまが、佐渡でお亡な
くなりになったとさ」 「へえ、島流しになると騒いだのは、つい去年ごろのことでしたね」 「お年もお年だ、佐渡ヶ島ときちゃあ、お体にも、こたえたのだろう。ふぁが、島では、絶食して、入寂にゅうじゃく
されたとか、たった今、高雄のお使いが見えて、聞いたんだが」 「どんな人間でも、年をとると、やっぱり、人は死ぬもんなんですね・・・・」 「あたりまえだわな。はははは、何しても、おれの兄五郎次とともに、兄弟の大恩人だ。また麻鳥どのとも、容易な仲ではない。汝わ
れやあ、家へ帰って、さっそく、親御たちへ、このことを、知らせてくれ」 島から遺骨を持ち帰った弟子僧があり、高尾信護寺では、勅勘のみゆるしなくもと、内々の通夜つや
葬儀の営みを行うことに決め、ごく深い縁故者だけへ、密ひそ
かに会葬触れをまわしているというのである。 麻丸は、急いで、わが家へ帰った。 |