こう、挙げてくると、限がない。 同時に、言えることは。 生前の頼朝もまた、始終、心は眼に見えぬ何かに脅
かされ通しであったろうと、いうことだ。兄の追捕に追われてさまよった義経よりも、頼朝の方が、ひそかには、得知えし
れぬ不安を、暗い心の谷に、休みなくしていたのではなかろうか。 とにかく、死因は公表どおりにしても、征夷大将軍頼朝ともある人の落馬死は、ただ事ではない。 そのうえ。──
ひとたび彼が死ぬと、その年から、鎌倉中は、仲間割れと、同士打ちのちまただった。 まだ十八歳の二代将軍頼家が、安達景盛の妾しょう
を奪うやら、母の政子が、和解に立つやら、そんなことにさえ、すぐ、兵馬がうごく有様だった。 とりわけ、鎌倉中が 「── どうなるか?」 と、騒がれたのは、梶原退治の勃発ぼっぱつ
である。 事の始めは、千葉、三浦、畠山などの諸将が連名で、梶原の専横、讒言ざんげん
のかずかず、そのほか罪状をならべて、 「先将軍家の御寵ごちょう
を誇って、人を毒し、政まつり
を曲げ、いまもそれを改めず、私利私欲のほかない男。犬畜生というもおろか。御家人の風上にもおけぬ」 と、評定所へ提訴し、こっぴどく糾弾きゅうだん
したのが、起こりであった。 今は、すがる頼朝もなく、梶原は一時、相模一宮へかくれた。けれど時を措お
いて、またひそかに、鎌倉へ潜り込んでいたので、 「ふてぶてしき、恥知らずめが」 と、たちまちそこを襲われて、屋敷はあとかたないほど、打ち壊されてしまった。 それが、年暮くれ
のことである。 明けて、正治二年の正月。── 梶原景時は、一族をあげて、都へ逃げのびてゆく途中、駿河国狐ヶ崎で、土豪の吉香きっこう
小次郎こじろう 、船越三郎などの手勢と追手の軍に挟撃きょうげき
されて、ついに、むざんな死に方を遂げた。彼ばかりか、景李、景高、景家らの肉親から党類まで三十三人、みな血の泥土に、枕をならべた。 ── もう、源氏の終わりは見えていた。 いちどは、心と心、物と物、見事に結晶された源氏も、やはり元へ還かえ
る一朝いっちょう の花でしかなかったのか。 若い将軍頼家も、長くは府業も保も
ちえまい。 弟の実朝さねとも
は、むしろ歌人肌の方であったし。 白頭巾しろずきん
の眉憂れたげな尼将軍政子にも、老いの波は、あらそえぬ。 ── 次代を待っていた北条氏は、源氏の骨肉たちが、非業ひごう
の中に散らし合った花を見送り、次代の大地にこぼして去ったその功績の実み
だけを、大樹の下で、拾っていた。 |