〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/09/02 (火) 頼 朝 の 死 (四)

こう、挙げてくると、限がない。
同時に、言えることは。
生前の頼朝もまた、始終、心は眼に見えぬ何かにおびや かされ通しであったろうと、いうことだ。兄の追捕に追われてさまよった義経よりも、頼朝の方が、ひそかには、得知えし れぬ不安を、暗い心の谷に、休みなくしていたのではなかろうか。
とにかく、死因は公表どおりにしても、征夷大将軍頼朝ともある人の落馬死は、ただ事ではない。
そのうえ。── ひとたび彼が死ぬと、その年から、鎌倉中は、仲間割れと、同士打ちのちまただった。
まだ十八歳の二代将軍頼家が、安達景盛のしょう を奪うやら、母の政子が、和解に立つやら、そんなことにさえ、すぐ、兵馬がうごく有様だった。
とりわけ、鎌倉中が 「── どうなるか?」 と、騒がれたのは、梶原退治の勃発ぼっぱつ である。
事の始めは、千葉、三浦、畠山などの諸将が連名で、梶原の専横、讒言ざんげん のかずかず、そのほか罪状をならべて、
「先将軍家の御寵ごちょう を誇って、人を毒し、まつり を曲げ、いまもそれを改めず、私利私欲のほかない男。犬畜生というもおろか。御家人の風上にもおけぬ」
と、評定所へ提訴し、こっぴどく糾弾きゅうだん したのが、起こりであった。
今は、すがる頼朝もなく、梶原は一時、相模一宮へかくれた。けれど時を いて、またひそかに、鎌倉へ潜り込んでいたので、
「ふてぶてしき、恥知らずめが」
と、たちまちそこを襲われて、屋敷はあとかたないほど、打ち壊されてしまった。
それが、年暮くれ のことである。
明けて、正治二年の正月。── 梶原景時は、一族をあげて、都へ逃げのびてゆく途中、駿河国狐ヶ崎で、土豪の吉香きっこう 小次郎こじろう 、船越三郎などの手勢と追手の軍に挟撃きょうげき されて、ついに、むざんな死に方を遂げた。彼ばかりか、景李、景高、景家らの肉親から党類まで三十三人、みな血の泥土に、枕をならべた。
── もう、源氏の終わりは見えていた。
いちどは、心と心、物と物、見事に結晶された源氏も、やはり元へかえ一朝いっちょう の花でしかなかったのか。
若い将軍頼家も、長くは府業も ちえまい。
弟の実朝さねとも は、むしろ歌人肌の方であったし。
白頭巾しろずきん の眉憂れたげな尼将軍政子にも、老いの波は、あらそえぬ。
── 次代を待っていた北条氏は、源氏の骨肉たちが、非業ひごう の中に散らし合った花を見送り、次代の大地にこぼして去ったその功績の だけを、大樹の下で、拾っていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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