建久九年の十二月二十七日という寒い日。 相模川で橋供養が行われた。 稲毛
入道重成が、亡妻の追善ついぜん
に架けた橋である。その故人は、みだい所政子の妹にあたる女性だったから、頼朝も、当日は出向いた。 ── 落馬したのは、その帰路だった。場所は稲村ヶ崎辺であったという。 よほど、打ち所でも悪かったのか、帰館後、日を追うて、重態に陥ち、二十日もたたぬうちに、逝去せいきょ
した。征夷大将軍の他界としては、なんとも実に、あっけない死であった。 それまでの頼朝は、日ごろ、歯痛にはよく悩んでいたが、しごく壮健であった。訃ふ
を知った世人が、変死か? などと考えたのも無理はない。 あいにく、吾妻鏡の建久十年 (四月改元・正治元年)
の部には、正月中の記事が欠けている。将軍家の死去を記載せぬのはよほどおかしい。幕府が故意に伏せたものであろうと、そこから後世いろいろ異説が出た。 しかし、政子の嫉妬しっと
ぶかさや、頼朝の好色にからませて、彼が暗夜、過あや
って宿直とのい の侍に殺されたとか、政子の薙刀なぎなた
にかけられたとかいう話は、おそらく下世話げせわ
のえせ事で、取るには足るまい。 ただ、おなじ妄譚もうたん
にしても、死因は、刺客の襲撃だという説には、あながち嗤わら
えないものがある。 なぜなら、従来から、鎌倉近傍でそうした不審人物が捕われた例は一再でなく、頼朝の出先でも、たびたび同様な事件はあった。 たとえば、建久二年の十一月にも、梶原平三が、由比ヶ浜を徘徊はいかい
していた不審な男をからめ捕と
って、拷問ごうもん したところ、男は、 「ぜひもない。耳に底に覚えておけ」 と、一座へ豪語し、 「おれは、亡き伊豆有綱どのの家人、兵衛尉ひょうえのじょう
康盛やすもり という者だ。頼朝に一太刀の怨うら
みも浴びせられぬは、かえすがえす残念だが、ここで首を刎は
ねられても、怨霊おんりょう は生きてみせる。なんで、頼朝夫婦を、ただおこうか」 その顔は、まさに怨霊の仮面めん
そっくりで、簾中れんちゅう の人影も、並み居る御家人どもも、思わず、ふるえ上がったということである。 また、同四年の、那須野の狩猟でも、平家の遺臣、越中次郎兵衛盛嗣の遺臣が、附近の山中に暮していると聞こえて、一と騒ぎした例もあり、もっと、ゆゆしい騒動は、同六年の、上洛中にもあった。 三浦平六、結城七朗などの供人が、京極の辺で召し捕った浪人で、これは前平家の中務丞なかつかさのじょう
宗資といい、父子して数年、頼朝を狙ねら
っていた者であったという。 なお、このおりの上洛中には、物騒な事柄が頻々ひんぴん
とあったらしい。大仏殿供養の日にも、また、頼朝が参内の途中でも起こっている。参内の車へ近づこうとした大胆な刺客は、本間ほんま
右馬允うまのじょう という武士だが、六波羅へひかれると、すきを見て、自殺してしまった。そのため、平家筋の者か、義経関係の者か、分からず仕舞いになってしまった。 |